広成建設はJR西日本グループの一員として、主に中国地方で新幹線や在来線のメンテナンスのほか、土木、建築、軌道など建設工事の施工および監理、建設工事の企画、設計などを担っている。広島駅から新幹線の高架に沿って東に数分歩くと見えてくるのが、広成建設 広島支店 広島土木作業所だ。今回の主人公である正木 智之はこの5月から所長を務めている。これまで西日本のさまざまな地域での勤務の経験を活かし所長として社員を束ね、日々の安全・安定輸送を支えている。
西日本豪雨の復旧では現地で指揮をとった。
出身は広島県大竹市。大学で土木を専攻しており、「地元に貢献したい」との思いで1996年に入社。入社直後は山陰支店に配属となり、島根県での勤務となった。その後も山口県、鹿児島県、滋賀県、富山県、大阪府などほとんどを地元以外で勤務した。それでも、「仕事も気候も全く異なる経験ができたことは、大きな財産になっています。もともと専門は土木でしたが、軌道の新設工事も担当しました。土木というと、道床や高架橋など線路の下にある土木構造物を担当するのが基本です。
私の場合、軌道を経験することができたため、土木構造物と軌道を一体のものとして考えることができるようになり、適切かつ効率的に仕事を進めることができました」。当然のことながら、新たに軌道を敷設する時、軌道の土台となる部分と軌道部分を合わせて強度や盛り土の高さなどを調整する必要がある。土木と軌道がそれぞれの仕事をきちんと仕上げることで線路が作られるため、一人の人間としてその両方に精通していることは強みになった。「西日本豪雨の復旧工事にあたってはほぼ軌道の新設になったため、土木と軌道を経験したことが大変役に立ちました」。
思い出にあることはと聞くと、2つのエピソードを紹介してくれた。
入社して10年が経過した頃、正木はJR西日本へ出向となった。それまでは現場の施工管理の担当がメインで、時に無理難題とも思われる注文がきた時、「無茶を言うな」と愚痴をこぼすこともあった。JR西日本では広島土木技術センターで勤務し、今度は工事を発注する立場となった。道路や河川などが関係する工事は、通常のメンテナンスとは異なり部外関係者が関わる。「工事内容だけを見ると無理難題のように思えても、何らかの理由があって注文がなされています。例えば線路と並走する道路であれば通行する車や歩行者を考慮する、あるいは河川であれば治水の観点などです。そうした背景を知ることで、仕事に取り組む姿勢も変わったように思います。誰にでも職責と役割があって、その上で話しているということを身に染みて感じました」。相手の立場に立った行動を強く意識したのはこの頃からだった。
もう一つは、北陸新幹線の軌道新設工事で富山県に赴任したことだった。監理技術者※として担当した初めての工事であり、やる気と不安が入り混じっていた。富山県が位置する北陸地方は、夏は暑く冬は雪が降る温度差が激しい地域で、温度の影響を強く受ける軌道の管理は簡単なものではなかった。「レールは暑いと伸びるため、特に夏は適切にレールとレールの継ぎ目の空間(遊間)を管理しなければレールが張り出してしまいます。それを防ぐために保守範囲を3日に1回は歩いて点検しなければなりませんでした」。また天候に応じて作業を変更しなければならない時もあった。「予定していた作業が雪で中止になるなどはしょっちゅうでした。開業日に間に合わせるため、作業時間を変更するなど臨機応変に対応していきました」。安全を支えるための地道な仕事、状況が変化する中でスケジュールに間に合わせるためにはどのような工夫が必要かを体で学んだ。
※監理技術者…工事の契約金額がある一定以上になる場合に当該工事現場に専任で配置される、施工の技術上の管理をつかさどる技術者。施工計画の作成、工程管理、品質管理その他の技術上の管理および工事の施工に従事する者の指導監督を担う。
現在正木は念願の地元・広島県に帰り、広島土木作業所の所長として14名を預かる身となった。繰り返し正木が語るのは、「社員の安全が一番」という言葉。正木自身、過去には一歩間違えれば事故につながる経験もした。「チームで作業をしていた時、ダイヤを自分で確認せずに人任せにしていて、遅れていた列車が接近しヒヤリとしたこともありました。少なからず私も経験を積んでいますので、こうした失敗談も含めて若手には伝えて自分ゴト化してもらうよう心がけています」。
正木は職場でよく雑談をするという。「雑談こそ、本音が聞ける機会だと思っています。雑談の中で気づくヒントや、それまで知り得なかった情報も得られると思いますし、人と人との関係性も築けると思っています。もっともっといろいろな話をしていきたいですね」。所長として赴任して早々に発生した西日本豪雨だが、「今までやってこられたのは職場に頼りになる社員と経験者がいるから」と感謝の気持ちを忘れない。これまで培われた経験と社員を思う心が、これからもJR西日本グループを支えていく。
父から言われた、中国の故事に基づく言葉です。もともと私は地元広島県で働きたいという思いで入社しましたが、島根、山口、鹿児島など県外での勤務が続きました。知らない土地で働くことに少なからず不安や戸惑いを感じている時に、この言葉をかけられました。振り返ると各地で経験したこと、例えば軌道の経験は異動なくしてはできませんでしたが、これが今の仕事に大いに活かされています。やりたくない、役に立ちそうにない仕事もあるかもしれませんが、必ずどこかで役に立つものだと、今になって感じています。