鳥取民藝美術館の展示室。館内には、吉田璋也の所蔵品を中心に展示されている。吉田の蒐集は陶芸品のほか、木工や染色品、和紙など多岐に渡る。民藝運動に奔走した柳宗悦の書や、バーナード・リーチがデザインした作品なども展示されている。

特集 日々の暮らしに宿る因州鳥取の民藝美 伝統工芸

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柳宗悦から吉田璋也へ、「美」による思想普及に奔走した社会改革運動

 網状のデザインをあしらったガラス戸を開き、入り口をくぐると瀟洒[しょうしゃ]な洋館のように洗練された空間が広がる。受付台に机や椅子、床や手すりに至るまで木材が使用され、天井には松の梁がいくつも走っている。「鳥取民藝美術館」には牛ノ戸焼をはじめ、鳥取民藝運動を支えた工芸品が数多く展示されている。

 「民藝」とは、「民衆的工藝」の略で、民衆が日々用いる工芸品のことだ。この言葉は、宗教哲学者で民藝運動の創始者 柳宗悦らの造語である。誰もが日常的に用い、普段使いにする生活雑器や日常の衣食住に必要な実用品。それらを「民藝品」と呼び、柳はそこに美が秘められていると提唱した。名もなき職人が生活のために、ただ無心のままに作り出す。幾度の繰り返しによって身体に刻まれた匠の技から生み出されたものに、美しさが宿るというのだ。

柳宗悦を中心とする民藝運動の同人たち。後列左が柳宗悦、一人おいて富本憲吉、河井次郎。前列中央は、バーナード・リーチ。〔1935(昭和10)年〕

柳が編集に関わった『白樺』のロダン特集。柳は20歳で参加し、美術評論家としてロダンやセザンヌ、ゴッホなど後期印象派の美術を論評した。

柳の民藝運動の原点となった「染付秋草文面取壺」。この壺との出会いで、柳は庶民の暮らしの中で使われる日用品の美に目覚めていった。

吉田璋也は鳥取市に生まれ、新潟医学専門学校在学中に文芸雑誌『白樺』の影響を受ける。後に、柳宗悦に師事。地元の材料と職人の技を生かし、民藝を手がけた新作民藝運動の旗手。1932(昭和7)年には「鳥取たくみ工芸店」、翌年には東京支店を開業し、販売や流通の体制を確立した。(鳥取民藝美術館提供/撮影:池内廣吉)

湖山池畔の高台に立つ「湖山池阿弥陀堂」。吉田が湖山池を鑑賞する施設として建設した。窓から望む3つの島を阿弥陀三尊に見立て、阿弥陀堂と名付けた。(鳥取民藝美術館提供)

「鳥取民藝館」は、鳥取民藝運動の拠点として1949(昭和24)年に創設された。「鳥取たくみ工芸店」や「たくみ割烹店」が併設され、吉田の新作民藝運動の流通・販売体制の中心となった。現在の「鳥取民藝美術館」は、1957(昭和32)年に新築された。

美術館に展示される机や木製電気スタンドなどの木工作品。吉田はこの地の材料と伝統的な技法によって暮らしの工芸品を次々とプロデュースした。

くず繭糸を利用した「ににぐりネクタイ」。英国のネクタイをヒントに、1931(昭和6)年にデザインされたもの。(鳥取民藝美術館提供)

鳥取民藝美術館常務理事の木谷清人さんは、「生活を美しくする。すると、人間の心も美しくなり、よりよい社会になる。こうした“美”による社会改革運動が民藝運動の信念にあります」と話す。鳥取民藝美術館の所蔵品は総数5千点以上に及び、その一部が展示されている。また、吉田は鳥取砂丘などの保護も努めたが、それも民藝運動の一環であった。

 民藝運動に奔走した柳だが、そのきっかけは朝鮮時代の陶磁器との出会いだった。柳は学生時代に宗教哲学や西洋近代美術に強い関心を示し、文芸誌『白樺』の創刊に参加。誌面では、ゴッホやゴーギャンなど後期印象派の画家や「近代彫刻の父」と呼ばれたロダンなどの作品をいち早く日本に紹介した。後に白樺の愛読者が柳を訪ねた際に、手土産として送られたのが、「染付秋草文面取壺」だ。この器に潜む美に感銘を受けた柳は朝鮮半島を訪ね、調査の数は21回にも及んだ。この陶磁器との邂逅が、これまで西洋美術に傾倒していた柳の人生を大きく転換させる。

 柳は調査の過程で庶民に愛された木喰仏[もくじきぶつ]に遭遇し、今度は全国に点在する木喰仏を求めて調査を重ねた。それにより、柳は各地の手仕事に触れることになる。「極めて地方的な郷土的な民間的なもの、自然の中から湧き上がる作為なき製品に、真の美があり、法則がある」。調査の旅から、柳はこの新たな美の考え方に確信を得ていく。

 柳らが「民藝」と名付けたのは、1925(大正14)年。翌年に陶芸家の河井寛次郎や濱田庄司、富本憲吉とともに「日本民藝美術館設立趣意書」を発表すると、民藝運動の思想を方向づけ、実践に移していく。

 そうした思想に多大な影響を受けたのが、「鳥取民藝の父」と呼ばれる吉田璋也だ。吉田は、鳥取市内の医者の家に生まれた。文学青年であった吉田は『白樺』に憧れ、実際に千葉県我孫子[あびこ]に住まう柳の元を訪ねている。柳のことを師と仰いだ吉田もまた鳥取市内の瀬戸物屋で牛ノ戸焼の庶民が日常的に使う五郎八茶碗と出会い、それを機に民藝運動家として「新作民藝運動」を展開していく。

 吉田は陶芸以外にも、木工、金物、染織、和紙など地場産業に働きかけ、プロデューサーとしての手腕を発揮する。また、流通や販売にも着手した事業家でもあり、民藝思想の普及に奔走した。吉田は「鳥取民藝会」を設立し、鳥取の新作民藝品を主に扱った「たくみ工芸店」を開く。その後「鳥取民藝館」や「たくみ割烹店」を開業するなど、鳥取という地から精力的に活動の幅を広げていった。

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