1954(昭和29)年、岡山県生まれ。青山学院大学文学部卒業。小学校講師ののち、作家デビュー。『バッテリー』で野間児童文芸賞、『バッテリーII』で日本児童文学者協会賞、『バッテリーI〜VI』で小学館児童出版文化賞、『たまゆら』で島清恋愛文学賞を受賞。著書は『福音の少年』『NO.6』シリーズ、『弥勒の月』『ありふれた風景画』『ランナー』『夜叉桜』『The MANZAI』『晩夏のプレイボール』『ぬばたま』『ゆらやみ』『火群のごとく』『透き通った風が吹いて』『ハリネズミは月を見上げる』『神無島のウラ』など多数。
わたしは岡山県の片田舎に生まれ、そこで育ち、今でも住んでいる。人生の大半を岡山ですごしてきたわけだ(現在進行形です)。東西南北、四方をぐるりと山で囲まれた小さな町だったが、子どものころの記憶には海や湖や都会の姿が、けっこう多く刻まれている。
父も母も旅行が好きで、わたしを含め三人の子どもたちをあちらこちらに連れていってくれたからだ。とはいえ、もう何十年も昔のこと。細部は曖昧になり、苫屋[とまや]の壁よろしく至る所がはげ落ちて斑[まだら]になっている(これは飽くまで自然な加齢現象だと、自分に言い聞かせています)。それでも色褪せず、鮮やかなままの場面が幾つか残っている。
まず、電車の記憶。
たぶん、四、五歳の頃だったと思う。当時、高校の教師だった母に連れられて大阪に遊びに行った。母の友人の家に泊りがけで出掛けたのだ。遊びに行ったと書いたけれど、その小さな旅の目的が何だったのか、今に至るまで、わたしは知らない。ただ、旧友宅を訪れただけなのか、話さねばならない何かがあったのか‥‥‥。まっ、旅の理由なんて、子どもにはどうだっていいことだ。母の友人の顔も声も身体つきも全く覚えていないけれど、大阪の夜景だけは脳裏のどこかに張り付いたままでいる。かなり高い場所から眺めていた。その方のお家[うち]だと思うから、高台のマンションか何かにお住まいだったのだろう。
眼下に光の世界が広がっていた。夜ともなると濃い闇に包み込まれる我が故郷とは違い、満天の星に似た無数の光が、あるものは点滅し、あるものは煌々と輝き、夜を彩っている。そして、それら光の風景の遠く向こうに電車が走っていた。昼間なら高架橋も電線も電車そのものもくっきりと見えただろうが、夜はそういう具体を闇に溶かし込んで、明かりだけを浮かび上がらせる。オレンジ色を帯びた電車の車窓が長く長く連なりながら走り去っていく様を、わたしは息を詰めて眺めていた。
当時、『銀河鉄道の夜』も『銀河鉄道999』も知らなかったけれど、現実と地続きに異世界があるのだと強く感じた。上手く言えないけれど、わたしが物語を書く動機の底の底に、あの夜の電車の記憶が沈んでいる。そんな気がしてならない。
つぎに、事件の記憶。
姉とわたしと両親で、奈良に旅行した。これもたぶんだが、わたしは小学一年生か二年生だったはずだ。父と母は決して仲が良い夫婦ではなく、よくケンカをしていた。「もう無理、離婚する」と泣いていた母をわたしは何度か目にしている。両親はしかし、別れることもなく、歳を経るごとにケンカの回数も減り、今、同じ墓石の下で眠っている。
閑話休題。そういう父と母であったが、一年に何回かは家族旅行を計画し、実行していたので、わたしが感じるほど仲は悪くなかったのかもしれない(今、思いました)。
で、奈良旅行での事件だ。奈良公園をかわきりに、あちこち(どこのあちこちか忘れました)を回り、宿に着いたときだった。和風の小さな旅館だったが、そこの玄関先であろうことか父は一言「ちょっと様子を見てくる」と言い残し、妻子を置いて消えてしまったのだ。正確にはどこかに駆け去っていった。旅館まではタクシーを使ったのだが、その途中でパトカーやら救急車やら警察官やら救急隊員やらが集まっている場所があって、「なんや事件があったんですかね」みたいなことを運転手さんが言った。“事件”の一言に父が反応したのを隣に座っていたわたしは見逃さなかった。それで‥‥‥それだけである。その“事件”がどんなものだったのか、父がいつ帰ってきたのか覚えていない。ただ、いつもは厳めしくて怖い雰囲気の父が、意外に野次馬根性と好奇心に満ちた人なんだと発見した旅ではあった。鹿の群れに囲まれたことより、大仏の大きさより、その発見の方が奈良の旅のメインメモリーとなって、いまだにこうして思い出したりするのだ。


























