

「確認を怠らないこと」を信条とする渡辺。駅の安全・快適を守るため、自ら構内を見回って施設全体の状態を確認する。
日本有数のハブターミナル大阪駅。関西の主要都市を結ぶ在来線や関空特急はるかが乗り入れ、私鉄・Osaka Metroへの乗り換え動線が集約する。現在、駅長の重責を担う渡辺は、“安全を守るのは人”という信念のもと、鉄道の最前線に携わる人財の育成に力を注ぐ。
駅長室は常にオープンに。会話を通じて社員との距離を縮め、職場内での連携に繋げていく。
大分県出身の渡辺は、1981(昭和56)年、旧国鉄の門司鉄道管理局に入社した。配属された門司駅では、九州中から集まる貨物列車を機関車から切り離し、行き先ごとに仕分ける入換作業に従事した。「仲間同士で助け合い、分からないことも親切に教えてもらえた。危険が伴う厳しい現場で続けられたのは、職場環境のおかげです」と振り返る。その後、1985(昭和60)年には鳥栖車掌区の列車掛となり、鹿児島本線や長崎本線、唐津線を走る貨物列車の車掌として経験を積んだ。
転機となったのは、国鉄の分割民営化を間近に控えた1986(昭和61)年11月。渡辺は大阪の新幹線総局への異動を志願し、故郷を離れる。新幹線車掌になるための研修を受け、1987(昭和62)年4月のJR発足時には車掌として新幹線に乗務。自身も新たなスタートを切った。車内巡回では座席のお客様の目線に合わせて応対し、乗り換え案内は手書きのメモを添えるよう心がけたと話す。「お客様に喜んでいただくというやりがいを、乗務を通じて学びました」。
駅務を行う社員のもとに出向き、声かけをするのも日々のルーティンワーク。若手には特に気を配るという。
およそ2年間、高速鉄道の現場を経験した後、1989(平成元)年5月に鉄道本部運輸部運用課へ異動する。車両や乗務員の運用を統括する部署において、当初は臨時列車の車掌の乗務行路作成を担う。また、民営化に伴う各JR間の人件費の清算業務にも携わった。続いて大阪支社運輸部営業課の配属となり、各駅の収入分析や商品企画、営業制度を担当する。さらに、異動した運輸課では券売機やエレベーターといった駅設備の改良を担うなど、現場をサポートする幅広い業務に従事した。「お客様へのより良いサービスに繋がるように、現場社員のために仕事をする。間接部門としての達成感を味わうことができました」と語る。
この時期には、辛く大変な現場支援も経験した。1995(平成7)年1月17日に発生した阪神・淡路大震災。渡辺は、駅舎やホームに甚大な被害を受けた神戸線住吉駅に駆けつけ、復旧活動に尽力した。迂回ルートとなった宝塚線新三田駅では、始発から終電までの間、乗り換えの案内放送を繰り返し行ったそうだ。励みになったのは、お客様からかけられる「ありがとう」「がんばって」の言葉。鉄道の復旧を願う人々の思いに支えられ、発生から74日後の4月1日、全線復旧を果たせたという。
駅構内の人員配置に過不足はないかなど、巨大ターミナルとしての体制をチェックし、業務の円滑化を図る。
今、渡辺は、1日75万人※もの乗降客が利用する西日本最大の交通結節点 大阪駅の駅長を務める。駅の歴史は古く、初代駅舎は1874(明治7)年に開業。現在は、橋上改札口やドーム屋根を持つ5代目の駅舎が大阪ステーションシティとして一つの街を築く。渡辺と大阪駅との関わりは、助役(副駅長)として赴任した2008(平成20)年に始まる。当時は、現駅舎完成に向けて線路の切り換えやホーム拡張工事が進行。渡辺は列車運行と工事との調整を担い、お客様が使いやすい駅をめざして現場を指揮した。その後、京橋駅長を務めた際には、エレベーターの案内サインに動物のイラストを導入して分かりやすい表示に努めるなど、常にお客様視点による駅づくりを推進した。2020(令和2)年11月、渡辺は駅長として再び大阪駅に着任する。以降、これまで自身が培った“常にお客様を意識して仕事を進める”という姿勢を、鉄道輸送の最前線に立つ多くの社員に示し続ける。渡辺は、朝の点呼を見て回るほか、時間があれば構内に出向いて一人ひとりに話しかけるという。「確認を怠らないこと、ルールや手順も決められた通りにやることが安全の基本です。鉄道会社としての凡事徹底に努めてほしい」と、駅務を担う上での心得を伝え、社員の成長を促す。進化を続ける大阪駅の未来を見据え、人財育成に力を尽くす。
※2024年度1日平均(参考:データで見るJR西日本2025)




























