永平寺山門から中雀門(ちゅうじゃくもん)を望む。山門は永平寺最古の建造物で、左右の柱にかかる聯(れん)には「求道心のある者のみ門を通ることを許す」という言葉が書かれている。修行僧がこの門をくぐることを許されるのは上山(入門)、そして、修行を終えて下山する時だけである。

特集 命をいただき、すべてに感謝を捧げる食膳 精進料理

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日常生活そのものこそ修行の実践

 参道の杉木立ちや苔むした石垣は美しく、境内は凛とした静寂に包まれている。大本山永平寺[だいほんざんえいへいじ]には、2月になると雲水[うんすい]と呼ばれる修行僧になるための入門者が全国から集まる。永平寺最古の建造物である山門の前では、禅の道を志す若者たちが上山[じょうざん]を許されるまで立ちつくす。この厳冬期に入門までに長時間を要することもめずらしくないという。

 福井県吉田郡永平寺町の山間部、白山山系に連なる大佛寺山[だいぶつじさん]の斜面に七堂伽藍[しちどうがらん]を擁する永平寺は、創建780年を誇る修行の道場だ。道元禅師[どうげんぜんじ]開山の禅寺では日々、雲水たちが厳しい修行に努めている。

 道元は、1200(正治2)年に京都で生まれた。父は後鳥羽院に仕える内大臣[ないだいじん] 久我通親[こがみちちか]の子である通具[みちとも]、母は摂関家の藤原(松殿[まつどの])基房[もとふさ]の息女と伝えられる。名門貴族の家柄に育った道元だが、幼くして母を亡くした。最愛の母の死に世の無常を感じ、9歳で仏教の入門書とされる『倶舎論[くしゃろん]』を読了する。13歳で比叡山に上り、その翌年に天台[てんだい]僧として剃髪[ていはつ]、受戒[じゅかい]する。たゆまぬ求道心[ぐどうしん]で修行の日々を送る道元だが、『本来本法性[ほんらいほんぽつしょう]、天然自性真[てんねんじしょうしん]』(人は本来「仏性[ぶっしょう](悟っている状態)」そのものである)という教えに対し、「ならばなぜ、修行をして菩提[さとり]を得ようとするのか」という疑問を持った。その解決を求め、比叡山を下りた道元は臨済宗建仁寺[りんざいしゅうけんにんじ]で禅を学び、正師[しょうし](仏道を実践する真の師)を求めて中国(宋)に渡る。

墨染めの衣に律衣[りつえ](袈裟[けさ])を着ける道元禅師『観月の像』。ただ、ひたすら坐禅する(只管打坐)そのこと自体が悟りであると説き、永平寺を開山し、正法(仏教の正しい教え)の普及に邁進した。(写真提供:大本山永平寺)

道元禅師が著した、典座の職務とその心得を記した『典座教訓』。典座の役割から始まり、三つの心構えまで、食事を作る者のための教えが書かれる。
(写真提供:大本山永平寺)

僧堂飯台(そうどうはんだい)で食事をする雲水。永平寺では、食事の前には「五観の偈(ごかんのげ)」を唱え、作法に従って食事が始まる。(写真提供:大本山永平寺)

「僧食九拝(そうじききゅうはい)」の様子。食事の準備ができると、まず典座寮に祀られた韋駄尊天に供える。続いて、僧堂に向かって九拝し、速やかに食事が僧堂へ運ばれる。(写真提供:大本山永平寺)

小食と呼ばれる朝食は、白粥と香菜(沢庵、梅干)、胡麻塩の三点。粥のおかわりは、一度だけ許される。祖師の忌日などでは、特別に簡単なおかずが一皿添えられる。(写真提供:大本山永平寺)

修行僧や参籠者の食事を作る典座寮がある大庫院。地上3階、地下1階の木造建築。伽藍の中でも一際大きな建物だ。

 宋の明州慶元府[めいしゅうけいげんふ]の寧波[ねいは(ニンポー)]の港において、道元はある禅道場の老典座[てんぞ](食料の調達や調理、食を司る責任者)と出会う。修行僧にご馳走を作ろうと食材を仕入れに来たという老典座に対し道元は、そんなことは若い修行僧にまかせて今夜は仏道について話をしましょうと誘った。しかし、その老典座から役職の重要性や、台所仕事の意義に通じる仏道の修行について諭される。

 道元は、坐禅や経典を読むことだけが修行ではなく、食事を作るという日常生活の全てが仏道修行であり、実践であることを知る。帰国後に道元はその教えを『典座教訓[てんぞきょうくん]』や『赴粥飯法[ふしゅくはんぽう]』に記した。これらの著書が、現在に続く精進料理の根本となっている。

 宋で禅を究めた道元は、『普勧坐禅儀[ふかんざぜんぎ]』を著し、「只管打坐[しかんたざ]」〜ただ、ひたすら坐禅をすること自体がすでに仏の姿である〜と人々に説いた。京都の深草に坐禅の修行道場である興聖寺[こうしょうじ]を開創し、10年余りを過ごした後、越前の山中に移った。正師である如浄[にょじょう]禅師のもとで修行に努めた宋の天童山景徳寺[てんどうさんけいとくじ]を模した本格的な修行道場の開山に邁進する。1244(寛元2)年に大仏寺として創建された寺院は、その2年後に永平寺と改称された。

 永平寺の一日は、午前4時の起床を知らせる「振鈴[しんれい]」の音で始まる。食事は「坐禅」「朝課諷経[ちょうかふぎん]」(経文の読誦)を行った後、料理が整うと、大庫院[だいくいん]の典座寮[てんぞりょう](厨房)に祀られた韋駄尊天[いだそんてん]の前に供えられ、修行の中心的な道場である僧堂[そうどう]に向かって九拝[きゅうはい]する。その後、食事が僧堂へ運ばれ、「行鉢[ぎょうはつ]」(食事)と呼ばれる小食[しょうじき](朝食)が行われる。その後、およそ11時半頃に中食[ちゅうじき](昼食)、16時半頃に薬石[やくせき](夕食)が仏道修行として行われている。

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