飯盛城の主廓からの眺望。飯盛山の標高は315,9mで、北摂の山々や大阪平野、六甲山地などが望める。

特集 戦国乱世に畿内を制した「天下人」の先駆者 三好長慶

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風流風雅を愛でた戦国武将、長慶

 「理世安民[りせいあんみん]」、乱世を治め、民を安心させる。これを旗印に掲げた三好長慶は、越水城に始まり芥川山城、そして飯盛城と拠点を移し、重臣である松永久秀らの補佐を受け、「三好政権」を樹立していく。

 長慶が最初の居城、越水城主となったのは1539(天文8)年。かつて権勢を振るった室町幕府の管領である細川高国[たかくに]が摂津西部を管轄する西宮を守るための城だ。西宮神社の門前町として栄えた西宮は、西国街道が町中を貫く港町で、海陸の交通の要衝であった。ここを足がかりに勢力を蓄えた長慶は、細川晴元への反撃に出る。権謀術数を駆使して晴元の重臣となり、大和国(奈良県)を中心に勢力を広げた木沢長政を敗死させ、その後、南近畿を押さえる遊佐長教[ゆさながのり]と同盟を結んだ。四国だけでなく、近畿でも軍事的優位に立った長慶は、ついに晴元とその側近として台頭する同族の三好宗三[そうさん]の打倒を決意する。

 1549(天文18)年に淀川沿いで行われた「江口の戦い」で大敗した晴元と宗三は、13代将軍足利義輝[よしてる]とともに京都から退去した。こうして長慶は入京を果たす。織田信長が15代将軍となる足利義昭[よしあき]を奉じ、上洛したのが1568(永禄11)年なので、信長に20年先んじていた。長慶は海外貿易にも高い関心を示し、いち早く戦に鉄砲を用い、後にはキリスト教の布教も公認した。連歌[れんが]や茶道も長じた長慶は、信長のみならず、多くの戦国武将に影響を与えた先駆者であった。

 そして、1553(天文22)年、長慶は京都で将軍足利義輝を破り、近江の朽木[くつき]に追放した。没落した義輝はそこで5年あまり幽居せざるを得なくなる。芥川山城に拠点を移した長慶は、戦国時代で初めて足利将軍家を擁立せずに京都を治める。ここに長慶による単独政権が成立し、将軍家不在のまま首都の支配が始まった。

大東市と四條畷市にまたがる飯盛山の山頂には、飯盛城が築かれていた。

CGで再現された飯盛城。城域は東西約400m、南北約700mに及び、西日本有数の規模を誇った。飯盛城は三好長慶が晩年を過ごした居城。
(CG画像提供:大東市)

飯盛城御体塚郭。多くの曲輪に石垣が用いられている。石垣を使い始めた城としては古く、城の威容を示すためのものだったのではないかとされる。

三好長慶が父の元長の菩提を弔うために建立した南宗寺。多くの禅僧や千利休らが修行した寺としても知られる。枯山水の庭園は戦国武将の古田織部の作と伝わり、国の名勝に指定されている。

南宗寺甘露門前の三好長慶像。長慶は文化人としても評判が高く、連歌や茶の湯にも優れていた。飯盛城では連歌の会が催され、「飯盛千句」として記録が残る。

長慶ゆかりの大東市が実施する「三好長慶公武者行列 in大東」。毎年春に行われるイベントで本格的な甲冑を身にまとい、市内を練り歩く。

監修:天野忠幸 参考文献:『三好長慶』今谷 明・天野忠幸監修(宮帯出版社)、
『三好一族』天野忠幸著(中公新書)、『三好長慶』長江正一著(吉川弘文館)

 まさに下剋上であるが、朝廷は京都の平和を維持できない足利義輝より長慶を信任し、義輝に並ぶ「従四位下」に叙した。1556(弘治2)年、長慶は父元長の位牌所である堺の顕本寺[けんぽんじ]に赴き、二十五回忌を行なった。そして、新たに元長の菩提を弔う寺院として、堺に南宗寺[なんしゅうじ]を建立する。茶人の千利休をはじめ、高僧の沢庵宗彭[たくあんそうほう]ゆかりの大徳寺末寺の名刹だ。長慶と利休は同じ年の生まれで、二人とも後に大徳寺の聚光院[じゅこういん]に眠ることになる。

 1560(永禄3)年、三好氏は河内や大和を平定し、日本海へ進出する。そして、長慶は嫡子の義興[よしおき]に芥川城を与え、飯盛城に移った。1561(永禄4)年になると、長慶親子は有力な戦国大名の証である名誉職「御相伴衆[おしょうばんしゅう]※2」に加えられた上、天皇家に由緒を持ち、足利将軍家にのみ使用が許可された「桐御紋[きりごもん]」を拝領する。長慶はわずか10年で三好家の家格を将軍の陪臣[ばいしん](家臣の家臣)から将軍家並みへと引き上げた。

 しかし、栄華は長く続かなかった。3人の弟たちや義興の死が相次ぎ、長慶も1564(永禄7)年に飯盛城で病没。その波乱に満ちた43年の生涯を閉じた。その後、甥の三好義継[よしつぐ]が後継者となり、将軍足利義輝を討ち取るも、諸大名の大きな反発を招く。そして、足利義昭や織田信長の上洛によって三好政権は瓦解する。

 長慶は今年で生誕500年を迎えた。西宮市、大東市、四條畷市、高槻市、堺市、徳島県などゆかりの地では、記念イベントが催されている。その功績に対して、まだまだ知名度が高くない長慶だが、江戸時代の世相を風刺した狂歌『天下餅』は、「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 すわりしままに 食うは徳川」と詠う。しかし、織田が天下餅をつく前にそれを「蒸し」たのは、確かに長慶であっただろう。

※2:室町幕府将軍が殿中における宴席や他家訪問の際に随従・相伴する役職。

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