エッセイ 出会いの旅

内場勝則

1960年生まれ、大阪市出身。新喜劇座員、俳優。吉本興業株式会社所属。1982年NSC大阪1期生として入学。1985年から吉本新喜劇の舞台を中心に活動。1995年からは辻本茂雄、石田靖とともに吉本新喜劇のニューリーダーに就任し、座長として新喜劇の新生、活性化に尽力し、スーパー座長の異名で活躍。2019年3月をもって座長を勇退したが、ベテラン座員として新喜劇を支え続けている。テレビドラマへの出演も数多く、新喜劇とはひと味違うシリアスな演技にも定評がある。妻は新喜劇座員の未知やすえ。趣味は読書とトレッキング。

「初めての家族旅行」

 生まれも育ちも大阪市内で、幼い頃は近くを走っていたチンチン電車の運転士になりたいと思っていた。親父は内装の職人だったので、単身で全国各地に仕事に行っていて忙しく、なかなか帰ってこないような暮らしだったこともあり、近場でさえ家族旅行などというものに出かけたことがなかった。ところが、忘れもしない小学生のとき、生まれて初めて、そしてそれが子ども時代では唯一となる家族旅行に出かけることになった。

 親父の実家が福岡の博多にあり、墓参りが目的の旅だった。しかも岡山までは新幹線で行くという。それまで、そんなことをしてくれたことがなかった寡黙な親父が「行くか?」くらいの軽い感じで言い出した話だったので、子どもながらに半信半疑の気持ちだった。予定の日が近づき、「本当に行けるんだ!」とわかったときの興奮といったら…。電車に乗ってどこかに行くということさえほとんどなかったのに、「遠くへ」行ける。しかも新幹線で! ぼくが小学生で初めてする経験を、まだ小さかった妹が一緒にすることに「おまえはこんなうちから連れて行ってもらえてええのお」とうらやましく思ったことを憶えている。

 初めて足を踏み入れる新大阪駅の広さに驚き、初めて見る新幹線「ひかり」のかっこよさとスピードに圧倒され、何か弁当を買ってもらって車内で食べたことは記憶しているのだが、とにかくすべてが新鮮すぎて、実のところ細かなことは何も憶えていない。ただただ新幹線に乗れるということが嬉しくて、ずっと夢の中にいるような気分でフワフワとしていたような気がする。のちに今の仕事をするようになって、「こんなに乗るか!?」というくらい新幹線に乗るようになるのだが…。内場少年はそんなことは知るよしもない。

 福岡ではそのとき親戚とも初めて会った。親父の実家は博多の街中にあったのだが、墓は少し離れた郊外の糸島というところにある。紺碧のきれいな海があり、その海岸沿いにお墓が密集して立っている。大阪市内しか知らない当時の僕にとって、初めて見る本物の田舎の風景だった。墓参りのあと、目の前の海で泳いで遊んだことも楽しかった思い出だ。初めての家族旅行は、何もかもすべてが見たことのない初めて尽くしだった。

 その後、結婚して僕自身が親になり、子どもが少し大きくなってから、今度は自分が子どもを連れて福岡に墓参りに行くようになるのだが、その間、40年くらいの月日があった。それからは、折に触れて墓参りに行っている。博多といえば、一度こんなことがあった。ちょうど夏休みの帰省ラッシュの時期だったので、先に往復のチケットを購入していた。博多駅で僕はさっさと改札内に入っていたのだが、子どもと嫁さんは外で悠長にアイスクリームかなんか食べている。「早く、早く!」とせかしたが間に合わず、予約していた列車は発車してしまった。次の便を取ろうとしたが時期が時期だけに「のぞみ」も「ひかり」も満席で、結局このときは「こだま」で帰ることになった。「こんなに止まるんかい!?」というくらいの駅に止まりながら、新大阪まで5時間弱かかったが、ふだんはなかなか聞けない子どもの学校のことなど、いろいろと家族でたくさん話ができた。かえっていい思い出になっている。各駅停車も時にはいいものだ。

 娘が成人してからは家族揃ってというのは難しくなったが、子どもが小さな頃は、冬は鳥取や福井にカニを食べに行ったり、夏は和歌山の川湯温泉で川遊びをしたり、仕事のロケで行って良かったところに家族をよく連れて行った。10年程前、後輩と屋久島に行き往復10時間歩いて縄文杉を見たことも忘れられない。一説には樹齢約7300年ともいわれる木に触れることができて感動した。それをきっかけにその後、京都の大文字山に登ったり、劇場の空き時間に生國魂神社[いくくにたまじんじゃ]まで歩いたり、トレッキング(風?)や散歩をよくしている。そんなとき、土地勘のない知らない町でも、怖がりながら、迷いながら、行きに通ったのとは違う道で帰ろうとする自分がいる。いつもどこかで、まだ見たことのない初めての出会いを求めているのかもしれない。

ページトップに戻る
ローカルナビゲーションをとばしてフッターへ