

三好山の山頂に立つと一気に眺望が開けた。眼下に高槻市の街並み、遠くには淀川を挟んで生駒山地までが一望できる。戦国時代、この山頂には三好長慶が居住した芥川山城[あくたがわやまじょう]があった。城郭は東西約500m、南北約400mに及び、北、西、南の三方向は急な崖で囲まれた天然の要害だった。この山城から京の都の政治を執り行い、畿内一円に睨みをきかせていた。山中には居住する曲輪[くるわ]や堅牢な石積みが見られ、生活や宴の痕跡である陶磁器、釜、瓦の破片など遺物が数々出土する。
阿波国(徳島県)出身の戦国武将三好長慶は、室町幕府の足利将軍家を補佐する管領※1家の細川晴元[はるもと]に仕える。三好家はそれを足がかりに、やがては将軍をしのぐ権勢を誇るまでに躍進する。三好長慶の勢力範囲は四国から近畿の13カ国に至り、国の数では武田信玄や上杉謙信、そして毛利元就をも上回る。戦国の雄である織田信長に先んじた最初の「天下人」とも評価される。
三好家は鎌倉時代に小笠原氏が阿波国三好郡に土着し、その地名を姓にしたことに始まるとされる。その三好家が台頭したのは戦国時代。阿波は管領家である細川家の分家の支配下にあった。長慶の曾祖父にあたる三好之長[ゆきなが]は、細川家の本家で家督争いが勃発する中、阿波出身の細川澄元[すみもと]を支え、1506(永正3)年に上洛した。そして、澄元を細川本家の家督に押し上げた。その功績により之長は、摂津国(大阪府北部と兵庫県南東部)や河内国(大阪府南東部)に権益を与えられ、畿内に三好家の地盤を作ることに成功する。
※1:「かんれい」室町幕府において将軍に次ぐ最高の役職。

芥川山城の主郭(しゅかく)。広大な山城には、大小28カ所の曲輪が築造されていた。城跡には、土塁や土橋、虎口〔城郭の入り口〕、石垣などの遺構が確認できる。

三好長慶が畿内で最初に居城とした越水城跡(兵庫県西宮市)。この地は西国街道の要衝で、水にも恵まれた築城の適地だった。

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1522(大永2)年…
三好元長の嫡男として阿波に生まれる。
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1527(大永7)年…
(元長が阿波より堺に進出する)
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1532(享禄5)年…
(元長が一向一揆に攻められ自害する)
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1533(天文2)年…
細川晴元と本願寺の和睦を斡旋する。
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1549(天文18)年…
江口の戦いで細川晴元を破る。
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1553(天文22)年…
足利義輝を追放し、芥川山城を居城とする。
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1558(永禄1)年…
足利義輝と和睦する。
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1560(永禄3)年…
飯盛城を居城とする(織田信長が桶狭間で今川義元を討つ)。
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1561(永禄4)年…
飯盛城で千句連歌を催す。
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1562(永禄5)年…
教興寺の戦いで畠山高政と根来寺を破る。
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1563(永禄6)年…
嫡男・義興が芥川山城で病死する。
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1564(永禄7)年…
飯盛城で死去する。

自治都市堺の玄関口だった堺旧港。三好家の拠点でもあった堺旧港は、海外との交易などで栄え、三好家の経済的な基盤となった。

『絹本著色三好長基像』。長基と元長は同じ。1527(大永7)年に足利義維、細川晴元を擁立し、「堺幕府」を開いた。元長の軍事力によって支えられ、当時の将軍足利義晴、管領細川高国を京都から近江に追放した。
(徳島県指定有形文化財/見性寺蔵)
この「海船政所跡(かいせんまんどころあと)」は、江戸時代のものだが、この周辺は当時、三好一族の堺における拠点だったと考えられている。


その之長が死去した7年後の1527(大永7)年、長慶の父の三好元長[もとなが]が阿波から畿内の堺に進出する。元長は阿波に逃れていた10代将軍足利義稙[よしたね]の養子である足利義維[よしつな]を真の将軍跡目として擁立し、澄元の子の細川晴元を本家の家督に推した。そうして12代将軍足利義晴に対抗し、「堺幕府」をつくる。元長には山城国(京都府南部)の南半国の支配権が与えられ、その地盤はさらに強固になった。
そんな乱世の中、次第に力をつけていく元長に脅威を感じた晴元が、近江国(滋賀県)に逃亡していた足利義晴と手を結んだことで堺幕府は分裂する。さらに、晴元は本願寺の証如[しょうにょ]を煽動[せんどう]して、一向一揆を堺に指し向けた。10万の軍勢に囲まれた元長は堺の顕本寺[けんぽんじ]で自害。堺幕府は5年で瓦解する。
元長の活動拠点であった堺は、南北朝時代より瀬戸内海の海運の要所であったが、戦国時代になると明王朝(中国)や琉球王国(沖縄県)などとの国際貿易港として発展し、繁栄を極める。元長が堺を根拠地としたのも、そうした経済力を取り込もうとしたからであろう。阿波の産物である「材木」や「藍」は、堺や兵庫、尼崎などを通じて畿内に流通し、その莫大な利益が三好家の隆盛を支えた。
この之長、元長の京都や畿内での事績を引き継ぎ、登場するのが三好長慶だ。幼名を千熊丸[せんくままる]と名乗った長慶は、一向一揆に敗れ自害する元長の指示で、阿波に逃れていた。その翌年、細川晴元は利用したはずの本願寺と争う事態となり、大坂を攻めたが敗れて、淡路へ追い落とされる。窮地に陥った晴元は恥ずかしげもなく、長慶に助けを求めた。晴元は父の仇であったが長慶はそれに応え、一時的にではあるが、本願寺の和睦を仲裁し成功させる。これを機に、長慶は晴元の家臣として畿内への復帰を果たす。幼少の身で家督を継ぎ、家臣を守らねばならない長慶にとって、仇の主家に従わねば、戦国の争乱を生き残れないところに複雑な胸中がうかがえる。