さらに山陽道と山陰道は本州最西端の下関で交わり、海峡対岸の九州と繋がる。物流の一大中継点ゆえに歴史の舞台として度々登場する。万葉時代の遣唐使船、平清盛の頃の日宋[にっそう]船、室町期の日明[にちみん]船などあまたの船が盛んに海峡を往来し、人や物、さまざまな文化を交流させた。そして、日本史の転換点にもなった。
源平合戦最後の「壇ノ浦合戦」では、武家政治をさらに強固にする舞台となった。壇之浦の海峡は狭く、潮は驚く速さで流れ、小さな船は滑るように過ぎていく。頭上高くに関門橋が海峡をまたいでいる。その下関側に砲台跡がある。
海峡に向って大砲(レプリカ)が並んでいる。「壇ノ浦砲台跡」は「下関戦争」の証言者だ。幕末に長州藩はこの砲台で外国艦船を砲撃し、海峡を封鎖した。この攘夷に、英米仏蘭の四カ国連合艦隊は報復し長州軍は大敗。欧米列強国の強さを見せつけられたこの下関戦争は、明治維新へとさらに加速していく出来事だったといえる。
目の前すぐ間近を、押し倒されそうな迫力で巨大なコンテナ船が轟々[ごうごう]とエンジン音を残して横切っていく。かき分けた波が船首で大きく盛り上がる。次々と、大型タンカーや貨物船が通過していくこの海峡は大河のようだ。最短幅700m、潮流は最大10ノット(約20km/h)と速く、舵とりが難しく船舶を翻弄する。
関門海峡は世界屈指の“海の難所”だ。「関門」の由来は下関と門司に因むが、1日500隻以上の船舶が往来する混雑ぶりは文字通り航海の“関門”である。時代を超えて海上交通の要衝であるのは一にも二にも地理的な利。日本海と瀬戸内海を繋ぐ結節点は、古来、大陸や半島への重要な海路であった。
海峡に臨む下関の「みもすそ川公園」。ここは源平の古戦場、壇之浦でもあり、対岸まで最短700m。砲台跡は、「下関戦争」の舞台となった。
長州藩は関門海峡を通過するアメリカ・フランス・オランダの艦船に、砲台や軍艦から砲撃を行った。その報復としてアメリカ軍艦が長州藩の軍艦を沈没させ、続いてフランス軍が前田砲台を攻撃し破壊した。
上の写真は、1864(元治元)年の下関戦争で連合国によって占拠された前田砲台(史跡長州藩下関前田台場跡)。〔下関市立歴史博物館所蔵〕
旧下関英国領事館の領事の執務室(上)とレンガ造りの外観(右下)。1906(明治39)年に建てられた現存する最古の領事館。国指定の重要文化財。
講和ののち下関と門司は開港した。海峡の東と西に洋式灯台が設けられ、航海の安全を見守ると同時にその光は日本を文明開化へと導いた。下関は北前船の中継地としてすでに江戸時代から西国有数の商業地として繁栄していた。下関の国際的な重要性に着目したのは駐日英国公使のアーネスト・サトウで、当地での英国領事館開設はアーネストの進言による。
一方、門司は塩田と漁業を生業[なりわい]とする小さな寒村だった。しかし、筑豊炭田という石炭の一大供給地と江戸時代以来の石炭積出中継拠点であった若松港を背後に抱えた門司は、明治半ばに石炭の積出港として国の特別輸出港の地位を確立する。やがて横浜、神戸と並ぶ「日本三大港」となり、石炭景気と、商船や客船で町は大いに沸きたったという。
そんな2つの海峡都市の、明治から昭和初期の輝かしい記憶が日本遺産「関門“ノスタルジック”海峡」だ。構成するのは42の文化財。主に近代化とともに建てられた重厚な西洋建築物群で、それらは今、ノスタルジックで独特の街並み景観を見せてくれている。それは海峡都市の栄光の履歴でもある。
門司港駅(旧門司駅)、1914(大正3)年竣工。九州の玄関口にふさわしくネオルネッサンス様式のモダンな建築だ。改装中だったが、2019年3月10日にグランドオープン。
威風堂々の門司港駅(旧門司駅)と、港周辺の建物群は海峡都市の栄華を物語るに十分だ。旧門司税関や名だたる商船会社、商社の建物が居並ぶ街区に漂うのはレトロ感より、むしろ都市の威厳だ。人々でごった返した繁栄の時代が生き生きと甦ってくる。
門司と下関は、本船航路を横切って連絡船でわずか5分。貨物船の引き波に体を大きく揺さぶられて降り立ったのは下関の唐戸桟橋だ。
人気の観光スポット「門司港レトロ」と呼ばれる門司港周辺の風景。写真中央は北九州市旧大阪商船、左の瀟洒な建物はアインシュタイン博士が宿泊したという北九州市旧門司三井倶楽部、その背後は門司郵船ビル。