1977年広島県出身、元プロ野球選手。内野手、右投右打。県立広島工業高校から駒澤大学に進学し、4年時に日米大学野球で打率5割を記録。同年秋のリーグ戦では打点王とベストナインを獲得した。1999年、広島東洋カープ入団。53試合に出場し、105打席で7本塁打を記録。2008年、阪神タイガースに移籍。2014年に阪神タイガースを退団し、翌年に古巣の広島東洋カープに戻る。2018年に現役を引退。引退直後の2018年11月5日、中国新聞に新井元選手を讃える全面広告が2ページにわたり掲載された。第7代日本プロ野球選手会会長。
プロ野球生活20年、この間をふくめて脇目もふらず、ずっと野球ひと筋でした。広島に生まれて、もの心がついた時にはもうカープの熱烈なファンで、小学生になる前から近所のともだちと野球に明け暮れる毎日でした。寝るときも、母親にねだって買ってもらったカープのユニホームをあしらったパジャマ。まったく寝ても覚めても野球でした。
そのパジャマを着て見る夢はもちろんプロ野球選手になること。というよりも、広島カープのユニホームを着て野球がしたい、という一途な思いを抱いて小学、中学、そして高校と野球に打ち込んできました。そういうこともあって、今回、「旅」というテーマのエッセイのお話をいただいて、正直なところ、「うーん」と困ってしまいました。
でも、記憶の彼方に一つありました。中学を卒業した春休みのこと、大人の引率者もなく、野球部員10数人で1泊2日の旅行に出かけたのです。広島駅からJR山陽本線の各駅停車に乗って、岡山県の鷲羽山ハイランドへ。宿では大広間のようなところにみんなで雑魚寝したのを覚えているのですが、いまとなって断片的な記憶が残っているだけです。
ただ「ほんとうに楽しかった」。あんな楽しかったことはこれまでにないくらいに楽しかった。みんなで、ああでもないこうでもないと旅を計画し、行き先や行き方を決めるわけです。みな電車で遠くに出かけるのが初めてで「電車で旅をする」、ということ自体がわくわくする楽しい時間だったのです。
電車の中で、旅館で、野球部の仲間同士が夢を語り、冗談をいって無邪気にじゃれ合う。たった1日でしたが、それまでの毎日が野球漬けだったので、心底楽しかった。あの映画『スタンド・バイ・ミー』の少年たちのような思春期のちょっとスリリングな旅。あとにも先にもこれが数少ない旅の思い出です。
私にとって鉄道はやはり「新幹線」です。プロ野球選手にとって遠征はつきものです。広島カープはセ・リーグで一番西に位置し、大阪、名古屋、東京への遠征で新幹線を頻繁に利用しますが、「移動」はそれ自体が疲れます。だから試合に備え、身体を休めるために車内ではほぼ寝ています。
『プロ野球と鉄道』(田中正恭著/交通新聞社)という本に「広島東洋カープと鉄道の密接な関係」という章があります。それによると、広島が初めてリーグ優勝したのは1975年で、ちょうど同じ年に山陽新幹線が博多まで開通し、東京〜博多が全通。遠征の負担が格段に楽になったためだと著者が説いています。
広島がそれまで優勝を果たせなかったのは、遠征時の移動の負担が他球団にくらべてはるかに過大なものだったという説には納得です。初優勝時、エースだった外木場[そとこば]さんは「カープの優勝は山陽新幹線のおかげだと思っています」とインタビューに答え、古葉監督ほかの選手もみな同じ思いだったようです。
それぐらい、新幹線で遠征は楽になった。その昔は満員の3等車に選手は通路に敷いた新聞紙に座って遠征先に向かったという話を先輩から聞いたこともあります。東京〜大阪間の新幹線が開通してもカープはまだ遠征に大変な負担を強いられていたのです。それが「のぞみ」号で広島〜東京は約4時間。
まったく感謝です。個人的にも新幹線に感謝。昨年引退するまで、広島と自宅のある神戸をほぼ毎週行ったり来たりしていました。マツダスタジアムで日曜日のデーゲームが終わるとすぐ新幹線に飛び乗り、神戸で家族と過ごす。やはり新幹線のおかげで、4年間頻繁に広島〜神戸間を往復していました。
もっとも、楽しみな遠征もあります。「サンダーバード」で移動する富山、金沢、福井を回る遠征は、車窓の風景も食べるものも楽しみでした。岡山から「やくも」で行く鳥取県の米子も楽しみな遠征先でした。そこには若い頃から良くしていただいているかけがえのない恩人がいらっしゃるのです。
20年のプロ野球生活は苦しいことの連続でしたが、それ以上に楽しい野球人生でした。引退したいま、「のぞみ」号で家族とゆっくり鉄道の旅をしてみたいと思っています。