能勢の浄瑠璃発祥の地、能勢町西地区の田園風景。

特集 大阪府豊能郡能勢町 能勢の浄瑠璃

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浄瑠璃の文化を育んだ“おやじ”

能勢町西地区には、民家の敷地内や道端など至る所に太夫襲名碑が点在する。写真の碑には、八代目井筒太夫門人とある。

 北摂の山々が能勢の町をぐるりと囲む。妙見山、歌垣山、剣尾山、三草山から派生した尾根が襞[ひだ]のように入り組んでいくつもの谷をつくる。ゆるやかな山の斜面には棚田が築かれ、谷の一面に田や畑が広がっている。人口は約1万1千人ほどで、町のほとんどを山林と田畑が占め、山裾に点在する集落には懐かしい茅葺き屋根の民家も見られる。

 魚が泳ぐ清流が流れ、トンボが群れをなし、とんびがピーヒョロと青空に輪を描く。収穫の季節の里は栗がたわわに実り、谷は稲穂が揺れ黄金色に染まっていた。大阪都心から1時間ほどだが、能勢には童話のような風景がしっかりと残っていて、のどかな時がゆっくりと過ぎてゆく。そんな山里で、江戸時代から長く語り継がれてきたのが浄瑠璃だ。

 町は「浄瑠璃の里」を謳[うた]う。知る人は多くないが「能勢の浄瑠璃」と言われるほど、町ぐるみで浄瑠璃が盛んな土地柄である。その昔、「村長より浄瑠璃の太夫の方が尊敬された」。そんな話も伝わる能勢では、人々はこぞって浄瑠璃に親しんだ。

昭和30年代頃の浄瑠璃の稽古風景。太棹三味線に合わせて義太夫節を朗々と語る。庭先には牛を連れた人が見物している。浄瑠璃がいかに暮らしに根づいているかを伺わせる一景だ。

 浄瑠璃とは、三味線の伴奏と太夫の語りからなる音曲で「語り物」「素浄瑠璃」とも呼ばれ、能勢の浄瑠璃はその一流派である義太夫節。江戸時代初期に竹本義太夫が創始したのに因んでそう呼ばれる。義太夫節の特徴は、語りにおける物語の叙事性と重厚さにあり、伴奏の太棹[ふとざお]三味線との掛け合いで、場面の緊迫や抑揚を表現する独特の語りだ。

 「浄瑠璃は、歌うとは言わず語るといいます。語り手の太夫一人で、物語の展開から場面状況、登場人物の人格まで語るのです。物語を語りで立体的に描きあげる浄瑠璃は語りを極限まで追求した話芸です」。そう説明したのは、39代目竹本文太夫[ぶんだゆう]の長尾義和さん。能勢町議会の議長でもある。

町の南に聳(そび)える能勢妙見山は関西では「能勢の妙見さん」の愛称で親しまれる。妙見大菩薩信仰は芸能に関わる人の信仰を集め、近松門左衛門も熱心な信者だったという。歌舞伎の役者など芸能人の参詣も少なくない。

歌垣山の麓の倉垣(くらがき)天満宮。創建は平安時代中期で、祀神は菅原道真公。境内の広場で浄瑠璃の公演が行われることもあり、大勢の見物客で賑わう。樹齢400年以上の神木である銀杏の巨樹は大阪府最大。

 三味線と語りの浄瑠璃に人形芝居を組み合わせたものが「文楽」の名でよく知られる人形浄瑠璃。ユネスコ無形文化遺産でもあり、日本を代表する伝統芸能として世界的にも有名だ。文楽は、江戸末期に植村文楽軒が衰退していた人形浄瑠璃を再興し人気を博したことで、その代名詞となった。能勢に浄瑠璃文化が誕生するのもその頃だ。

 能勢の西地区に神山[こやま]という在所がある。そこに杉村姓の医家があり、杉村量輔[かずすけ]なる人が大坂で医学を学ぶかたわら、当時盛んだった浄瑠璃を習得し、能勢に持ち帰った。量輔は自ら竹本文太夫を名乗り、能勢の人々の間に広めたという。娯楽の少ない山里に、浄瑠璃は農閑期の格好の里人の楽しみとなった。

 竹本文太夫の名取を継いでいるのが長尾さんだ。浄瑠璃が200年以上も途中で廃れることなく、この山里で継承されてきた理由は、「おやじ制です」と長尾さんは言う。“おやじ”は流派の家元にあたるが、世襲ではなく数年で新しい“おやじ”と交代する。その間に“おやじ”は数人の弟子をとって稽古をつけ、何かと面倒を見て太夫に育てあげるという。

竹本文太夫の長尾さん。現在、“おやじ”として弟子に稽古をつける。

 “おやじ”が新しく替わるごとに裾野が広がる能勢独特の伝承制度である。太夫に口説かれて渋々弟子になる人もいたが「やってみると面白さにはまる」。長尾さんもそうだった。そうして新しいおやじは新しい後継者を育て、何世代も繋いできたのである。

 流派は他に竹本井筒太夫[いづつだゆう]派、竹本中美太夫[なかみだゆう]派、そして平成の時代に入って新たに生まれた竹本東寿太夫[とうじゅだゆう]の四派。地区内には歴代の太夫襲名碑が100基以上もあり、現在では女性を含め200人を超す太夫がいる。国の無形民俗文化財に選択されている能勢の浄瑠璃は、全員がアマチュアである。

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