晴れの国岡山は、全国有数の果物の産地として名高い。
瀬戸内の温暖な気候風土の中、
良質で、個性豊かな果実が四季を飾る。
梨の中でも、群を抜く大きさが特徴の「あたご梨」もその一つ。
冬の訪れとともに出回り、その存在感と高級感で贈答品としての人気を誇る。
古くからの主産地、岡山市雄神地区にあたご梨の旬を訪ねた。
あたご梨は、数週間追熟させると糖度や果汁が増し、香りもいっそう華やかになるという。年末年始、極上の味わいで家族が集う食卓に賑わいを添える。
日本における梨栽培の歴史は古い。原産地は中国とされるが、日本にも本州以西の各地に野生種のヤマナシが生育し、「日本ナシ」は自生するヤマナシから改良されたと考えられる。『日本書紀』には、693年の持統天皇の詔[みことのり]において、栗や桑などとともに梨の栽培を奨励する記述が残り、また平安時代の『延喜式』には宮廷の食事や貢物として利用されていたことが記されている。本格的な梨栽培が行われるようになるのは、江戸時代中期。栽培技術が発達し、150種もの品種が存在したという。さらに、明治以降は品種改良も盛んになり、現在のような甘みが強く、果肉の柔らかな梨へと時代とともに進化した。
梨は、大きく「日本ナシ」、「洋ナシ」、「中国ナシ」の3種に分類され、出回る梨のほとんどは、瑞々しく、シャリシャリとした食感が持ち味の日本ナシに含まれる。さらに、日本ナシは、淡い黄緑色の果皮を持つ「青梨」と、黄褐色の「赤梨」とに分けられる。「あたご梨」は、大正の初めに育成された品種で、「二十世紀」と「今村秋」との交雑で生まれたと推定される大粒種の赤梨。平均で1kg、大きなものでは2kg以上もあるという堂々たる姿によらず、きめ細かな果肉や滴る果汁、独特の香りと甘さにも富む繊細な味わいだ。雨が少なく、日照に恵まれた岡山県は、生産量全国一のあたご梨の特産地。中でも、岡山市東部の西大寺雄神地区は、栽培のさきがけの地として、歴史と品質の高さを誇っている。
雄神地区に梨農園が開かれたのは、1898(明治31)年。この地域は、児島湾に注ぐ吉井川の右岸にあたり、水田地帯の周辺には緑豊かな丘陵地が広がっている。水はけの良い斜面を利用し、当初は長十郎や二十世紀、晩三吉[おくさんきち]などが次々に導入され、大正時代には中国種の鴨梨[ヤーリー]の栽培が始まるなど、地域における梨栽培の礎が築かれていった。
あたご梨は、昭和10年代に岡山に導入されたが、当時は肉質が硬く、変形果も多いため、注目されずにいたという。大きさも、目立つほどではなかったそうだ。しかし、雄神近隣の大多羅地区の篤農家が1959(昭和34)年から研究を重ね、15年がかりで甘く丸々と太ったあたご梨の栽培技術を確立。消費者の嗜好に合った、個性的な梨の導入を模索していた雄神でも、これをきっかけにあたご梨の栽培を本格化させ、今に至っている。
大玉のあたご梨は、樹勢(樹の強さ)に配慮した植栽間隔、摘蕾・摘果によって花や実の数を大幅に減らし、面積あたりの収量を抑えるといった栽培管理を基本とする。1月の土づくりからスタートし、11月の収穫まではほぼ1年がかり。春から夏にかけては交配作業や袋かけなど、地道な手作業が続けられる。丹精込めた一玉一玉は、雄神梨出荷組合独自の完全共選によって厳しく選果され、出荷規格に沿ったものだけが化粧紙に包まれて産地を旅立つ。包みを開くと、品質という誇りとともに、旬のあたご梨の艶やかな姿が現れる。
病害虫を防ぐための「袋かけ」の前には、大きく形良く育つ実を見極め、余分な実を取る摘果作業が行われる。その後、大きく育った実をいたわりながら手作業で収穫する。
収穫された梨は、まず1度目が生産者、2度目は出荷組合員の共同作業で二重に選果され、「赤秀」「青秀」などのランクが決まる。
通常300〜400g前後の梨に比べ、あたご梨は優に1kgを超える圧倒的な大きさ。果皮にくぼみなどがなく、左右対称のきれいな丸い形が最上級とされる。