備中高梁駅前の通りから北側を眺めれば、臥牛山[がぎゅうざん]の頂に、雲海に浮かぶ“天空の山城”で知られる備中松山城の天守が望まれる。高梁は市街地の中央部を高梁川が南北に貫き、中国山地に連なる山々が重層する吉備高原に開かれた城下町だ。城下には大名茶人小堀遠州[こぼりえんしゅう]ゆかりの名刹頼久寺[らいきゅうじ]や漆喰壁が連なる武家屋敷、美観地区には旧藩校跡などかつての遺構が現在に残る。山あいの風情ある佇まいから「備中の小京都」とも呼ばれる。
市街地から高梁川の支流である成羽川[なりわがわ]に沿って西に向かうと成羽町の里山風景が広がる。その途中のかぐら橋の袂では、神話に登場する大蛇退治[おろちたいじ]の素戔嗚尊[すさのおのみこと]や奇稲田姫[くしなだひめ]の神楽像が迎えてくれる。ここは備中神楽発祥の地だ。
神楽の起源については定かではないが、記紀神話の「天岩屋戸[あまのいわやど]」の一節によるとされている。天岩屋に姿を隠した天照大神[あまてらすおおみかみ]を岩屋から戻すために、高天原[たかまがはら]の神々は岩屋の前で祈祷し、天鈿女命[あめのうずめのみこと]は桶を踏み鳴らし即興で舞い踊った。それを見た神々は手拍子で囃し興じた。この騒ぎに天照大神は岩屋から姿を現し、地上界に再び光が戻った。これが日本の芸能に関する最古の記録といわれ、神楽の源流となったという。
臥牛山の南麓に広がる城下町高梁の石火矢町(いしびやちょう)ふるさと村。通りには、武家屋敷が約250mにわたって立ち並んでいる。
突如、備中松山城に現れた「さんじゅーろー」は、猫城主に就任し、激減した観光客を回復させた招き猫。
備中国奉行の小堀遠州が手がけた頼久寺の蓬莱式枯山水庭園。愛宕山を借景に、石組みで鶴や亀に見たてた島や、青海波(せいがいは)を表現したサツキの刈り込みが見所。国の名勝に指定される。
(写真提供:頼久寺)
備中神楽最大の功労者、西林國橋の生家のある落合町の福地集落の風景。のどかなこの山里の風景は、近世から現在も変わらない。
日名川沿いの日名神楽公園。公園内には備中神楽の創始者 西林國橋を顕彰した石碑が立つ。画面右は、神楽の演目の一つでもある大国主命の像。
成羽町上日名地区に立つ西林國橋の墓碑。その奥には荒神社が祀られる。吉備高原の里には、川筋谷筋ごとに荒神を祀る祠が数多く点在する。
成羽川のかぐら橋の袂に立つ奇稲田姫の神楽像。神代神楽の「大蛇退治」に登場する姫舞の軽やでしっとりとした姿を像に写している。
成羽町が備中神楽発祥の地とされるのは、落合町福地[しろち]の出身で西林國橋[にしばやしこっきょう]という成羽の神官の存在があった。神社の宮司であった國橋は江戸時代末、それまでの神楽の一部に「神代神楽」と呼ばれる演目を創始した。この頃の江戸や京では能や狂言、歌舞伎、浄瑠璃などが盛んで、京で国学を学んだ國橋は、そうした芸能に触発され、これまで神事色が強かった神楽に、神話を元に演劇要素を強調した演出を加え、現在の備中神楽の基礎を作ったのだ。
成羽川支流の福地川を遡り、國橋の生誕地に足を運んだ。野鳥のさえずりが聞こえる美しい田園風景が広がる集落には、生家が今も同じ場所に残る。成羽川からなだらかな谷あいを南へ行けば、日名[ひな]川沿いの成羽町上日名[かみひな]地区に國橋の顕彰碑[けんしょうひ]が立つ。周辺の高台に鄙[ひな]びた祠[ほこら]が見える。この地区の荒神社[こうじんしゃ]だ。荒神信仰は主に西日本を中心にみられるが、荒神社の数は岡山県が最も多く信仰があつい。荒神は一般的に火の神、竃の神として崇められている。しかし、備中地方では先祖霊と土地の神が結びついた産土神[うぶすながみ]として尊ばれている。小さな集落の単位で祭祀される荒神は、時に凶作や疫病をもたらす荒ぶる神でもある。その神の御霊を鎮め、安寧と五穀豊穣を祈るのが「荒神[こうじん]神楽」だ。
備中神楽には、毎年行われる地域の氏神に奉納する「宮[みや]神楽」と、荒神に奉納する「荒神神楽」がある。荒神神楽は十二支が一巡する13年目、または7年目の式年ごとに催され、神迎えの儀から吉凶を占う託宣[たくせん]の儀まで、夜通しで2日間にも及ぶ。備中地方では、毎年秋から春にかけて古くより伝わる荒神神楽が行われ、國橋が創作した神代神楽が軽やかな太鼓の音とともに奉納される。