1980(昭和55)年に発行された『津和野』(岩崎書店)。少年時代を過ごした津和野への郷里の思いが詰まった風景画集。

特集 「生涯絵描き」津和野の原風景を求めて 安野光雅

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空想を育んだ故郷、津和野を描く

「青野山

「沙羅の木」

「機関庫」

「女学校あと」

「青野山
寺田から眺める青野山。写真は、寺田から北へ行った青野山駅の近くから撮影。津和野を流れる津和野川はこのあたりでカーブし、高津川と名を変えて日本海に流れ出る。

「機関庫」
津和野駅の機関庫。現在も期間限定で蒸気機関車が運行され、この転車台が利用されている。

「沙羅の木」
屋敷町の通りにある「沙羅の木」。今は土産物店と喫茶店になっている。昔は大きな絹布工場だった。

「女学校あと」
かつての女学校があった場所から津和野カトリック教会を描く。その跡地には現在、津和野町民センターが建つ。

 帰国後も精力的に活動する安野は、絵本や風景画、装丁や雑誌の表紙絵、エッセイなどさまざまな仕事をこなす傍ら、帰郷のたびにスケッチした画集『津和野』を1980(昭和55)年に刊行する。

 「この本は津和野の観光案内というわけではない、私は見知らぬ方々と子供の時代について語り合いたいと願ってこの本をかいたといっていい」(1980年『津和野』)

 安野は、「故郷」とは「子供の時代」のことだという。生まれ育った故郷は、誰もが記憶する忘れ難い共通世界だ。そのときの情景を、読者と向き合うために描いたのがこの風景画文集だ。「小学校時代の勉強が一生を左右する」というのを安野は持論にしている。その理由に「幼少期の遊びの中に色々な発想が詰まっているから」。そんな安野が幼少期に過ごした故郷の風景を巡った。

 『津和野』は、「南谷大橋から」の眺望より始まる。野坂峠を越え、津和野の町に入る途中の国道の橋梁だ。そこからの眺めは見晴らしが素晴らしく、集落が山間部にすっぽりと収まっている。約40年前に出版された作品だが、安野の描いた風景とほぼ変わらない。巨大な鳥居をくぐり、町中に入る。山陰石見国[いわみのくに]、城下町の津和野には藩政時代の遺構があり、本町通りから殿町[とのまち]通りにかけて老舗の酒造屋や呉服屋、武家屋敷や旧藩校などが往時を偲ばせる。本町通りを北に折れると今市通りで、この通り沿いに安野が育った宿屋があった。安野は毎日のように遊び歩いた今市通りやこの周辺の日常の風景を切り取り、スケッチしている。

昭和初期の小学校の教室を再現した「昔の教室」で、思いにふける安野。2012(平成24)年撮影。「絵を描くことは写真のように描くのが一番いいと考えずに、想像して目に見えない世界を描くのが良い」と、安野は語っていた。(撮影:廣石修)

津和野駅前に建つ「安野光雅美術館」。安野75歳の誕生日に開館。2つの展示室には、絵本や風景画、本の装丁、ポスター、エッセイなど常時約120点が展示される。

副館長の青木貴志さん(右)と学芸員の福原京子さん(左)。「全国方々からたくさんの方が来られます。まず、この魔法陣で足を止め、みなさん頭を悩ませてから次にいかれます」と、福原さん。「魔法陣」の前で。

郷土の偉人 森外が翻訳した文体に魅せられた安野。舞台のイタリアを実際に巡り、書き下ろした安野『口語訳 即興詩人』(2010年 山川出版社)。

 画集の中で唯一、複数描いた題材がある。津和野のシンボル、青野山だ。津和野駅を過ぎて、北にしばらく行くと寺田地区に出る。そこから眺める青野山は、実に容姿秀麗だ。椀を伏せたような山容の裾野には、小さな集落とのどかな段々畑が広がり、青野山の風景として一つに溶け込んでいる。津和野川のせせらぎが心地よく、かつて幼少時代に訪れたとっておきの場所だったのだろうか。

 安野は、山口線の津和野駅「機関庫」も取り上げている。スケッチはまだ蒸気機関車が復活していない頃の転車台だが、現在は駅開業100周年を迎え、駅舎は新しくなった。しかし、ホーム周辺の風景はかつての佇まいを残している。その駅前には、安野が75歳のときに建てられた「安野光雅美術館」がある。津和野町の人々の声によって建てられた美術館には、安野作品約4,000点が保存されている。「先生は毎年、誕生日になるとここへ来られました。幼少期の先生は、青野山を見上げてあの山の向こうには何があるのか、どんな世界があるのかと想像していたそうです」と話すのは、安野光雅美術館副館長の青木貴志さん。安野は幼い頃から「空想」が好きで、校庭で遊ぶ子を眺めては各々のセリフを想像していたという。自分の目で見た事実からその奥の真実に近づくためには「考える」ことが不可欠だ。安野のそうした思いは、作品にも投げかけられている。入館して最初に向き合う壁一面の作品「魔法陣(マス目を使った数学パズル)」もそれで、安野作品には仕掛けを凝らしたトリックアートも多い。

 仕事を通じて知り合った作家 司馬遼太郎や女優 高峰秀子、心理学者 河合隼雄など交友関係は幅広く、世界的にも評価された安野光雅。生涯絵描きを全うし、最晩年に至るまで創作活動を続けていた。館内に設けられた「昔の教室」は少年時代、空想にふけった昭和初期の木造教室を再現したものだ。その教室で、安野光雅は今もなお青野山の向こう側を空想しているのかもしれない。

参考文献/『絵のある自伝』(文藝春秋)、『津和野』(岩崎書店)、
『芸術新潮 2021年9月号』(新潮社)

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