巨大な幹は力強く、その大木の佇まいは生命力に溢れている。和歌山県海南市にある藤白神社の大楠[おおぐす]は、樹齢数百年を超える神木だ。藤白神社は熊野九十九王子の一つで、古来より熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)への正門だった。この藤白神社の神主より名を授かったのが、後の「知の巨人」南方熊楠だ。「小生は藤白王子の老樟木[くすのき]の神の申し子なり」(1939年3月10日、『全集』九巻)。その名は、熊野権現の「熊」と藤白神社の「楠」に由来する。
熊楠は和歌山城下で六人兄弟の次男として生まれる。裕福な家庭で育った熊楠は少年期より非凡の片鱗を見せる。105巻81冊にも及ぶ百科事典『和漢三才図会[わかんさんさいずえ]』の筆写を試み、全てを暗記したという。熊楠伝説の一つだが、抜きん出た記憶力を持っていたようだ。その卓抜した記憶力は後の語学にも生かされ、英語、仏語、独語など多くの外国語を駆使した。
そんな熊楠の幼少期は、読書と筆写にあけ暮れるだけでなく、精力的に野外で動植物を観察、採集を行った。誰も近づかないところにまで足を踏み入れ、何日も学校に来なかったことが続いたことから、周囲は天狗にさらわれたと噂し、ついたあだ名は、「てんぎゃん」。和歌山の方言で、「天狗さん」を意味する。
徳川御三家の一つ、紀州徳川家の和歌山城天守からの眺望。熊楠は和歌山城より北に位置する橋丁で父 弥兵衛、母 すみの次男として誕生する。城下町育ちの都会っ子であった。
20歳でサンフランシスコに渡米し、後、ミシガン州に移り、4年間滞在した。フロリダ州、キューバのハバナを経て、英国ロンドンに入り8年間を過ごす。帰国後、那智山に入り、37歳で田辺に定住し、生涯を過ごした。
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1867(慶応3)年…
和歌山城下に生まれる
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1883(明治16)年…
和歌山中学校を卒業し、神田の共立学校に入学
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1886(明治19)年…
東京大学予備門を退学し、12月渡米
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1887(明治20)年…
サンフランシスコに上陸。ミシガン州立農学校に入学
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1892(明治25)年…
ニューヨークからロンドンへ渡る。父の訃を知る
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1893(明治26)年…
大英博物館の利用の便を得る
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1900(明治33)年…
生活の窮迫から帰国の途につく。神戸に上陸
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1901(明治34)年…
植物採集のため、那智勝浦町に移る
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1904(明治37)年…
田辺へ移り、永住
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1909(明治42)年…
神社合祀反対運動を始める
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1929(昭和4)年…
南紀行幸の昭和天皇に進講し、変形菌110種などを進献
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1935(昭和10)年…
神島が国の天然記念物に指定される
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1941(昭和16)年…
田辺の自宅で永眠、享年74歳
熊楠が12歳から15歳にかけて筆写した『和漢三才図会』。中国の百科事典『三才図会』を模範として江戸時代中期に編纂された、105巻81冊に及ぶ百科事典。
(「南方熊楠記念館」所蔵)
大学予備門時代に鎌倉や江ノ島で集めた採集物。上野の山など、頻繁に採集に出かけた。
(「南方熊楠記念館」所蔵)
眼光鋭く、精悍な顔だちの熊楠。ジャクソンビルで撮影されたキューバ出発時の記念写真。
(南方熊楠顕彰館所蔵)
キューバでは主に隠花植物を採集し、標本を作成した。
(「南方熊楠記念館」所蔵)
日本学者のディキンズと熊楠共訳の『方丈記』。熊楠の『ネイチャー』の論文を読み知り合ったディキンズ。熊楠はディキンズの研究を助け、文献収集や翻訳をサポートした。
(「南方熊楠記念館」所蔵)
英・仏・独語で書かれた民俗学、博物学、旅行記の筆写からなっている『ロンドン抜書』。大英博物館の図書室所蔵の書物を抜き書きしたもの。
(「南方熊楠記念館」所蔵)
米国ミシガン州アナーバーで購入し、愛用した組み立て式の顕微鏡とルーペ。野外活動でも携帯し、調査を続けた。
(「南方熊楠記念館」所蔵)
17歳で大学予備門(現在の東京大学)に入学した熊楠は、夏目漱石や正岡子規、秋山真之などとともに勉学に励んだ。しかし、持病を患っていた熊楠はやむなく途中退学し、和歌山へ帰省する。金物商であった父の弥兵衛は、酒造業も起こして財を成した。先を見通すことに長けた弥兵衛は熊楠の学才を認め、莫大な費用にも関わらず熊楠の遊学を支援する。それにより、熊楠は米国、サンフランシスコの学校に入学する。この遊学で、熊楠は大きく見聞を広めることになる。
持病を抱え、また、その強烈な個性ゆえに熊楠は再入学したミシガン州立農学校も退学し、その後、熊楠はどこにも属さずに植物採集に取り組む。やがてフロリダ州のジャクソンビルに移り、ホテルを転々とした後、拠点をキューバに移す。当時のキューバは独立戦争のさなかだったが、熊楠の探究心はとどまることを知らない。キューバでは主に隠花植物[いんかしょくぶつ](キノコ、藻類など)を中心に採集し、時に命を賭した野外活動によって地衣※[ちい]類の新種を発見する。それでも心が満たされない熊楠は4カ月間のキューバ生活を終え、当時世界中の「知」が集まる英国ロンドンへと向かう。
大英博物館の円形閲覧室は、熊楠にとってまさに求めていた場所であった。閲覧室では古今東西の書籍を挿絵まで筆写し、乾いた砂が水を吸うように膨大な知識を吸収する。その集大成が、通称『ロンドン抜書』だ。隙間なく書かれたノートは52冊、全一万数千ページにも及ぶ。この大英博物館では、中国革命の父 孫文と出会い、二人は約3カ月間、毎日のように議論を交わすほどの仲となった。別れの際には、孫文が「親友」の意味の言葉を熊楠に残している。
このロンドン時代に科学雑誌として権威のある『ネイチャー』に寄稿し、処女論文「東洋の星座」が掲載された。熊楠にとって知の宝庫であり、居場所であった大英博物館だが、衝動を抑え切れない熊楠は2度の喧嘩で出入り禁止となる。経済的にも困窮した熊楠は、志半ばで和歌山に帰国することとなる。
※菌類と藻類の共生体で、単一の生物のようにみえるものの総称。