

季節はうららかな春とはいえ、日本海の荒磯の海岸に波は激しく打ち寄せる。島根県浜田市三隅町は島根県の西部の町で、三隅川の河口にあって西側は日本海に臨み、背後には中国山地に連なる山塊が迫る。三隅という地名は「水が澄む。みずすみ」に由来するという。
三隅町は古くから石州和紙で知られる紙漉きの里だ。石州とは島根県西部の旧国名で石見国[いわみのくに]と呼ばれ、奈良時代には現在の浜田市に国府が置かれていた。ちなみに東部の旧国名は出雲国[いずものくに]。この紙の里では、1300年の時を経た今も、古代からほぼ変わらぬ製法で紙漉きの技術、技法が受け継がれている。
和紙の産地といえば、普通は清らかな水が流れる山里の集落という印象があるが、海辺の紙の里というのは全国でも三隅だけだ。この地で漉かれる多様な和紙は石州和紙と総称され、国の「伝統的工芸品」に指定されている。その中でも楮紙[こうぞし]の「石州半紙」は1969(昭和44)年に国の重要無形文化財に指定、2014(平成26)年にはユネスコ無形文化遺産に「和紙:日本の手漉和紙技術」として、岐阜県の「本美濃紙」、埼玉県の「細川紙」とともに登録された。

「日本の棚田百選」にも選ばれている室谷の棚田から三隅の市街地を望む。浜田市三隅町は自然豊かな地域だ。


郷土芸能の「石見神楽」は郷土に根ざした文化だ。老若男女を問わず神楽が郷土自慢で数多くの社中がある。強靭な石州和紙は、今でも神楽面やヤマタノオロチの胴などを作るのにはなくてはならない。

国東治兵衛が著した『紙漉重宝記』の復刻版。それによると、石州和紙の起源は柿本人麻呂だという。
紙漉きは中国で確立され、日本に紙漉きの技術が伝来したのは、7世紀初頭の推古天皇の時代とされる。高句麗の僧、曇徴[どんちょう]によって伝えられたことが『日本書紀』に記され、正倉院には千年を経て染み一つないきれいな和紙が保存されている。石州の名が文献に登場するのは平安時代中期に編纂された『延喜式[えんぎしき]』で、そこには「紙を40張(枚)納める」ことを義務づけられた42カ国の一つに「石見」が挙げられている。
石見国に紙漉きをもたらしたのは、柿本人麻呂という説がある。飛鳥時代の大歌人で、人麻呂が石見国に赴任したのは歴史的に事実で、「民に紙漉きを教えた」というのだ。江戸時代、石見国の紙問屋であった国東治兵衛[くにさきじへい]なる人物が著し、1798(寛政10)年に発行された『紙漉重宝記[かみすきちょうほうき]』にはそう記してある。考証はともかく、人麻呂は石見では神様として敬われ、製紙に関わる人々には「紙の神様」でもある。

三隅町の石州和紙会館には貴重な資料が展示してある。400年以上前の江戸時代初期の古文書の文字は、今でもはっきりと読める状態で残っている。石州半紙の強靭さを証明している。

石州和紙会館には常設展示のほか、紙漉きの工程の紹介や石州和紙の販売、さらに紙漉き体験や和紙作りの作業を行う工房も併設している。

石州和紙会館の原さん。「国の重要無形文化財に指定されているのは地元の楮で漉いた石州半紙です」と話す。
『紙漉重宝記』は、日本で初めての紙漉きの解説書で、紙漉きのバイブルでもあった。「半紙漉きのあらましを記して業者の枝折にしたい。また紙を商う人たちが、紙のことを知らぬのはなげかわしく思う。そこで自分は家童[いえわらわ]に教えんとして、その始終を画にあらわしこの一書をつくった」と記している。紙漉きの工程と手順を解説と絵図で分かりやすく紹介したこの書が、石州和紙の繁栄に大きく貢献し、郷土の偉人として讃えられている。
石州和紙会館に『紙漉重宝記』の復刻版がある。会館では石州和紙の貴重な歴史資料のほか、紙漉きの工程を紹介している。素材は楮、三椏[みつまた]、雁皮[がんぴ]だが、「石州和紙を代表するのは地元で栽培した楮で、伝統的な手漉きで作られる石州半紙です」と話すのは和紙会館の原小秋さん。楮を今も地元で栽培している産地は少ないという。
石州半紙の一番の特徴は「もっとも強靭な和紙」といわれる強さだ。楮の皮を、あま皮の部分も残して使うために繊維がより強靭となる。その昔、大坂の商家は石州半紙を大福帳に用いた。火災の時には井戸に投げ入れ、火事の後、井戸から引き上げた帳簿は、紙が水に溶けることも破れることもなく、墨も元のままで商売をすぐに再開できると、信頼は絶大だった。郷土の伝統芸能、石見神楽[いわみかぐら]にも強靭な石州和紙は欠かせない素材だという。