近代化産業遺産

京都に新たな活力と近代化をもたらした水の道。

京都に“命の水”をもたらしたといわれる琵琶湖疏水。大津から山をくぐり、はるばると流れてきた湖水は舟運による流通を盛んにし、灌漑[かんがい]や防火に用いられたほか、日本初の水力発電によって産業の近代化を推進した。先人たちの叡智と信念によって開かれた琵琶湖疏水は、現在に至るまでその豊かな水流で市民の生活を潤し続ける。

京都駅から市バス5系統で「岡崎法勝寺町」バス停下車。また蹴上周辺へは、山科駅から地下鉄東西線に乗り換え「蹴上」駅下車。

琵琶湖疏水記念館は、琵琶湖疏水竣工100周年を記念して1989(平成元)年8月に開館。明治から現代に至るまでの琵琶湖疏水の歴史や京都の近代化に果たした役割、建設に関わった先人たちの偉業などを貴重な資料とともに展示、紹介している。

京都百年の大計としての疏水事業

工事中の琵琶湖疏水(田邉家資料)。動員された作業員は延べ400万人。田邉は夜学で技術を教え、昼間の難工事に臨んだという。

 琵琶湖疏水は、滋賀県の琵琶湖を水源として、京都市に水を送り続ける人工の水路である。湖水を引く計画は古くからあったというが、巨額の費用や測量、土木技術が問題となり実現には至っていなかった。水利に恵まれない京都の長年の夢を実行に移したのは、1881(明治14)年、第3代京都府知事に就任した北垣国道[くにみち]。その頃の京都は、幕末の戦災や東京奠都[てんと]により、人口が激減し、産業も低迷していた。北垣知事は、衰退した京都の起死回生をかけて琵琶湖疏水の建設を決断。当時、琵琶湖疏水建設をテーマに卒業論文を執筆し、工部大学校(東京大学工学部の前身)を卒業したばかりの田邉朔郎[たなべさくろう]を工事責任者に抜擢し、復興への一大プロジェクトが始動した。

 1885(明治18)年に着工した疏水建設は、大津市観音寺から取水して長等[ながら]山をトンネルで抜け、山科を巡り蹴上[けあげ]に出て鴨川へと至る全長11.1kmの大土木工事であった。最大の難関は、長等山を貫通する2,436mの第1トンネルの工事だった。重機もなく、掘削は手作業に頼るしかない時代、田邉は山の上から垂直に穴を掘り、穴の中からも山の両側に向けて掘り進める「竪坑[たてこう](シャフト)方式」を採用。当時日本最長といわれたトンネルを開通させ、疏水計画を成功へと導いた。

京都の発展を支えた水の遺産

哲学の道。東山の麓、若王子橋から銀閣寺橋までの疏水分線に沿った堤は散策路として整備され、春は桜の名所になっている。

ねじりまんぽ。「まんぽ」とはトンネルを意味する古い言葉。インクラインの下をくぐり、三条通から南禅寺へ通じる歩道として造られた。内壁のレンガは、斜めに巻かれている。

蹴上インクライン。蹴上船溜から南禅寺船溜までの高低差約36mの斜面に、船を往復させるために敷かれた台車形式の傾斜鉄道。動力には蹴上発電所の電気が使われた。

 1890(明治23)年4月、5年の歳月を費やして、ついに京都は琵琶湖と結ばれた。豊かな水流は舟運を開き、水車動力や灌漑、防火などに利用されたほか、当初予定にはなかった水力発電をもたらすことになった。翌年には日本最初の事業用水力発電所として蹴上発電所が完成し、送電を開始している。この電力は、紡績をはじめとする製造工場の動力に使われ、日本で初めての路面電車を京都に走らせた。また、1894(明治27)年には伏見堀詰町に至る鴨川運河が完成。現在、この延伸された水路も含めて第1疏水と呼ばれている。その後、1912(明治45)年に全線暗渠の第2疏水がつくられ、蹴上浄水場より給水を開始。今日に至るまで市民の飲料水を提供し続けている。

 京都の発展を支えた人工の水路は、文化財としての価値も認められ、1996(平成8)年に関連施設12カ所が国の史跡に指定。2007(平成19)年には、琵琶湖疏水・琵琶湖疏水記念館所蔵物・南禅寺水路閣・蹴上インクライン・蹴上浄水場・蹴上発電所が近代化産業遺産に認定された。さらに、四季折々の風情ある水辺の景観は、観光資源として新たな役割を担う。近年復活した「びわ湖疏水船」は、観光客を乗せて運航し明治の偉業を今に伝える。

蹴上浄水場。第2疏水の水を利用し、日本初の急速ろ過方式の浄水場として給水を開始。春は4,600本ものつつじが場内を彩る。

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