赤穂市立海洋科学館「塩の国」。東浜塩田跡地に復元された塩田には、当時の水尾(みお:海水の取水用水路)の一部がそのまま残されている。各時代の塩田施設も復元され、塩田や釜屋での作業実演や塩づくりの体験もできる。

特集 「日本第一」の塩を産したまち 播州赤穂 〈兵庫県赤穂市〉 播磨灘の塩の国、赤穂

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「塩の国」に復元された入浜塩田

 浅野家による塩業政策の成功は赤穂藩の財政を大いに潤し、豊かな財力をもって城下町を拡張整備した。その城下町の佇まいは今では赤穂城跡周辺にわずかに偲ばれるだけだが、休日には城跡や、おなじみの大石内蔵助の旧邸跡、義士ゆかりの赤穂大石神社などを訪れる観光客で賑わう。

 赤穂城跡まで播州赤穂駅から歩いて10分足らずだ。沿道に赤穂情報物産館があったので立ち寄ってみた。赤穂の塩が何種類も観光土産に並んでいる。赤穂名物の塩味饅頭は塩で甘さを抑えた餡が持ち味で、代々の藩主が将軍家に献上したという伝統の銘菓である。

 それ以上に興味をそそったのは、店内に飾ってあった写真だ。明治から昭和初期であろう町の様子が写っている。駅前通りに軒を並べる塩問屋。軒の低い屋根に屋号を彫った大きな看板が掛かり、全国の得意先の名がずらりと並んでいる。店の前で店の主人や使用人が勢ぞろいしていて、どの顔も屈託がなくていい。店の中には塩俵が積み上がっている。こうした塩問屋が何軒もあったそうだ。塩田風景を写した古い写真もあった。海に臨んで広がる入浜塩田だ。規則正しく整地された塩田は幾何学的な美しさがある。

昭和初期頃の西浜塩田での作業風景。工程はほぼ全てが手作業で大変な重労働だった。写真は、鹹砂(かんしゃ:粒面に塩の結晶が付着した砂)を大きな木鍬(きぐわ)で集める作業。(写真提供:赤穂市立海洋科学館)

昭和初期頃の赤穂の塩問屋の風景。「赤穂名産焼塩」などの大きな看板が並ぶ。(写真提供:赤穂情報物産館)

入浜塩田構造模式図(赤穂市立歴史博物館『常設展示案内』より一部改訂転載)

赤穂名物「塩味饅頭」。

月に2回実演される「塩の国」の釜屋での塩づくり。鹹水を釜で沸騰(110℃)させて水分を4時間ほどで蒸発させ、塩の結晶を取り出す。往時の最盛期には1つの釜屋での製塩は1日約1t。200の釜屋が稼働していたという。

手前が製塩直後の塩で、まだ苦汁(にがり)を含んでいるため赤みを帯びている。その奥にあるのは7日間程度保存し、苦汁を落とした塩。

「塩の国」スタッフの廣門さんは「赤穂生まれ赤穂育ち。小学生の頃は塩田を通って学校に通ってました。塩田は私の原風景です」と話す。

 そんな「塩の国」の名残を垣間見ることができるのが、東浜の塩田跡地に昔のままに入浜塩田が復元された兵庫県立赤穂海浜公園内にある赤穂市立海洋科学館「塩の国」だ。日本の塩づくりの歴史が体験的に分かる施設で、復元された入浜塩田が広がる。その施設の釜屋では定期的に実際に塩をつくっている。塩の国スタッフの廣門[ひろかど]良信さんは「赤穂の入浜塩田は塩づくりの技術革新です。ここで開発された技術が瀬戸内海沿岸を中心に各地に伝えられ、日本中の製塩を支えたのです」と話す。

 入浜塩田の仕組みは、干潟を防潮堤で囲い、その内側に、潮の干満の潮位のほぼ中間の高さに塩浜という地盤を造成する。防潮堤に囲まれた内部を「うつろ」と呼び、周囲には「水尾[みお]」という水路が張り巡らされていて、海水が直接塩田に入らないように調整し毛管現象を利用して塩田の砂に滲み込ませる。

 塩分濃度約3%の海水を含んだ砂を引浜作業などによって水分の蒸発を促し、塩の結晶が付着した砂を集め、「沼井[ぬい]」という装置に盛り上げ、さらに海水をかけて塩分の濃度を上げ、鹹水[かんすい](濃い塩水、塩分濃度約18%)を得た。その後、釜屋に送られ石釜で煮つめて塩ができる。塩田作業のみならず製塩から搬出までの全体をシステム化し、上質の塩を大量につくりだす技術はまさに画期的だった。

 塩田の生産、経営単位は1.5ha(約4千坪)を一単位として釜屋1棟が附属し、10人ほどが1組として作業にあたった。東浜に江戸時代後期に日本最大の塩田地主となった豪商の豪壮な屋敷がある。西浜にも同様の塩田地主の屋敷や、明治期に建設された洋風の旧日本専売公社庁舎が現存していて旧街道は昔の佇まいを残している。

 東と西の塩田でつくられた塩は、さらに東にある坂越[さこし]の港から出航した塩廻船で江戸や大坂のほか各地に積み出された。町並みにそんな往時の賑わいと繁栄が偲ばれるが、塩で富を得た豪商は地域の祭りや文化を経済面で支援し、塩田で働く若者たちが地域の伝統の守り手であったという。

 赤穂では現在でも塩を生産し、国内産の2割を占めるという。赤穂御崎の沖を船がゆく。波穏やかな播磨灘が夕陽を照らして黄金色の輝きを放っていた。

全国で唯一完存する旧日本専売公社赤穂支局(大蔵省赤穂塩務局)庁舎。1908(明治41)年に建てられた洋風庁舎は日本の近代塩業政策を知る貴重な建築遺産。現在は赤穂市立民俗資料館として一般公開されている。

赤穂の東西の塩田でつくられた塩は、坂越港から出航した塩廻船で江戸や大坂など諸国へ運ばれた。廻船で隆盛を極めた坂越の町には、豪勢な屋敷など往時を偲ばせる立派な家並みが残っている。

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