再訪!沿線点描 桜井線 奈良駅〜高田駅(奈良県)

大和三山を車窓に、万葉まほろばの大和路を巡る。

桜井線は奈良駅から逆L字型に高田駅までの約29.4km。
日本最古の道、「山の辺の道」に沿って大和路を南下し、
桜井駅を経て大和三山を眺めつつ高田駅へ。

車窓からは若草山と興福寺の五重塔が見える。(奈良駅〜京終駅)

記紀、万葉の風景が続く「山の辺の道」を歩く

 桜井線の愛称は“万葉まほろば線”。「まほろば」とは、素晴らしい場所を意味し、特に奈良と三輪を結ぶ「山の辺の道」には万葉人の足跡が残る。“日本最古の道”といわれる古道には『古事記』『日本書紀』『万葉集』に登場する旧跡が数多く、古代の風景を巡るハイキングコースとして人気が高い。

 起点の奈良駅はもちろん奈良の玄関口だ。駅を離れた列車は関西本線(大和路線)と分岐し、高架上を南下する。車窓から若草山が見える。まもなく難読の京終駅だ。「きょうばて」と読む。この辺りがかつての平城京の南東の端、つまり終わりに位置したことに因む。120周年を迎え、駅舎が大幅に改装され新たな「奈良町の南の玄関口」として注目を集めている。

 桜井線は、次の帯解駅「おびとけ」、その次の櫟本駅「いちのもと」など難読駅が連続する。「帯解」の地名は駅から近い安産と求子[ぐし](子授け)の帯解寺に由来し、「出産後、腹帯を解く」からくる。「櫟本」は一説では、天狗の住む巨大な「櫟[いちい]」の木があったのでそう呼ばれるようになったという。

手前に奈良駅旧駅舎、隣り奥に新駅舎が並ぶ。1934(昭和9)年に建てられた旧駅舎は、2004(平成16)年に母屋部分のみ移築。現在は、奈良市の総合観光案内所として再利用されている。

帯解寺は、安産と求子祈願の寺として全国から信仰を集める。平安時代、文徳天皇の皇后が帯解子安地蔵菩薩に祈願し、後の清和天皇を無事に安産された。それを喜んだ文徳天皇が伽藍を建立し、寺号を帯解寺に改めた。

石上神宮は、かつては本殿をもたず、地中深く埋められた神剣と神宝を祀っていた。国宝の拝殿は神社建築としては最古のもので白河天皇の御代に宮中から神嘉殿を移築したものと伝えられている。

山の辺の道からは遠くに生駒山系と矢田丘陵が望まれる。

 車窓には垣根のように山々が連なっている。『万葉集』に詠われる青垣の風景に見入るうちに天理駅に到着。駅から東に約1kmのアーケード商店街を抜けてしばらく行くと、こんもりとした森の中に石上[いそのかみ]神宮が鎮座する。境内に放たれている鶏たちが出迎えてくれる石上神宮は日本最古の神社の一つで、古代の大士族である物部氏[もののべうじ]の氏神でも知られる。また、天理から桜井までの「山の辺の道/南コース」が境内から続き、古代の風景が続く。約14kmにわたる道中には万葉歌碑や古墳など旧跡が点在し、西側には遠く生駒山系や矢田丘陵を背景に、穏やかな奈良盆地が広がっている。まさに「まほろば」。リュックサック姿の人たちと途切れなくすれ違う。

 弘法大師ゆかりの長岳寺[ちょうがくじ]を過ぎて少し行けば、南コースの中間地点だ。さらに南に進む人がいれば、最寄駅から桜井をめざす人もいる。柳本駅から再び桜井線の列車に乗り込んだ。

奈良町の新観光拠点・京終駅

無人駅の待合室に設置されたピアノ。地域の子供たちや学生など、誰でも自由に弾くことができる。

120周年を迎え、復元された京終駅。

駅に併設されるカフェ店内。店が駅を管理して観光案内所も兼ねる。

 奈良駅の一つ隣、京終駅は奈良町の新たな観光拠点として脚光を浴びている。120周年を迎えた駅舎は、明治期の駅の姿にリニューアル。NPO法人が管理する駅舎内にはカフェが併設され、観光案内所の役割も兼ねている。店内や駅舎には寄贈されたピアノが設置され、全国から「ストリートピアノ」を求めてピアノ奏者や地域の人が鍵盤を叩きに来るそうだ。

 そんな駅舎の待合室ではさまざまなイベントが催され、プロのピアニストを招いたコンサートなども行われている。

神体山の三輪山から天領の今井町へ

箸墓古墳の前を通過する桜井線の列車。(巻向駅〜三輪駅)

 柳本駅から列車は次の巻向[まきむく]駅へ。駅の周辺には纒向[まきむく]遺跡がある。その範囲は東西約2km、南北約1,5kmに及び、初期大和政権の中心地だったとか。南にある箸墓[はしはか]古墳もこの遺跡の一部で、一説には邪馬台国の「卑弥呼」の墓だとも考えられ、考古学ファンの期待が高まり、話題を集めている。列車はさらに南へ向かい、大きな鳥居が遠くに見えると三輪駅だ。

 笠を伏せたような三輪山は神体山として崇められ、大神[おおみわ]神社が中腹に鎮座している。境内の大美和の杜展望台からは二上山や葛城山、金剛山、そして大和三山の香具山[かぐやま]、耳成山[みみなしやま]、畝傍山[うねびやま]が望める。万葉歌人が愛でたなんとも美しい大和の原風景だ。

 列車は大和川を渡るとまもなく桜井駅だ。桜井は「山の辺の道」や「伊勢街道」などの六古道が交わる交通の要衝だ。大和川(初瀬川)河畔の金屋地区には大坂難波からの舟が往来し、交易の中心地として古代の市があったという。この辺りを「海柘榴市[つばいち]」と呼び、男女が歌を交した「歌垣[うたがき]」の場でも知られた。

大神神社の大鳥居。高さ32.2m、柱間23mを誇る。大鳥居の向こうには神体山の三輪山が鎮座する。

金屋河川敷公園に建つ「佛教伝来之地」の碑。大和川(初瀬川)河畔一帯は古代大和朝廷の中心地で、遣隋使で知られる小野妹子が隋の使者を伴い帰国。朝廷がこの地で盛大に迎えたことで、「仏教伝来の地」と伝えられている。

天皇の住まいであった内裏跡や政治や儀式を行った大極殿跡が残る藤原宮跡。奥に見えるのは、大和三山の畝傍山。

 進路を西に変えた列車は大和三山の間を抜けるように香久山駅を過ぎる。線路脇には日本で初めて都としての姿を成した藤原京の中心、藤原宮跡がある。16年間の栄華を誇った藤原京は大和三山がすっぽり入るほどの規模を誇り、遷都した平城京や平安京以上のスケールだったとも考えられている。

最古の道「山の辺の道」

「記紀」や『万葉集』ゆかりの地名や旧跡が残る山の辺の道。手前の揮毫の石標は評論家の小林秀雄。

山の辺の道にある井寺池からの眺望。石碑の揮毫者は文豪の川端康成。

 奈良盆地の山裾を南北に走る「山の辺の道」は、石上神宮を分岐点に、奈良へと続く「北コース」と天理から桜井へ向かう「南コース」の総距離35kmの古道だ。特に南コースの約14kmは『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』の舞台で知られる。柿本人麻呂、倭建命、額田王など、その道程には“大和のまほろば”を現在に伝える万葉歌碑や寺社旧跡、古墳などが数多く点在する。

 「大和は 国のまほろば たたなづく 青かき山ごもれる 大和し 美し」

 『古事記』で詠まれた倭建命は、大和の素晴らしさを現在に伝えている。

南大和最大の商業都市として発展した今井町。東西600m、南北310mの地区内には、江戸時代の伝統的な様式を持つ町家が並ぶ。

橿原市観光ボランティアガイドの会、副会長の加藤さんは、「近年は県外から若者が移り住み、オシャレな店が増えました。もっと若者が来て、賑やかになればと思います」と語る。

駅舎内に皇族のための貴賓室が設置されている畝傍駅。現在の駅舎は1940(昭和15)年の「橿原神宮紀元2600年祭式典」に合わせて造られた。現在、貴賓室内部の公開はしていない。

 畝傍山が徐々に迫ってくると畝傍[うねび]駅。橿原[かしはら]神宮への最寄駅で、昭和天皇や皇室が利用した駅舎内の貴賓室が現在も保存されている。駅から西にほどなく行くと、映画のセットのような白壁町家の並ぶ一角がある。一向宗[いっこうしゅう]の寺内町[じないちょう]として繁栄した今井町だ。天領だった今井町は「今井札」を発行するほど経済的に潤い、「大和の金は今井に七分」といわれるほどの隆盛を極めた。碁盤目状の通りには江戸時代の町家が何棟も並び、町内には国の重要文化財が9棟残る。「橿原市観光ボランティアガイドの会」の加藤千恵子さんは、「代官所まであった今井町は昔から“景観を守る”意識が高く、江戸時代でも失火がなかったそうです」と話す。地域の人々の強い思いで守られた町を後に、列車は西へと辿る。蘇我川、葛城川を渡ると終点の高田駅だ。

 桜井線の旅は万葉の風景に触れ、古代と出会うひと時であった。

名勝 大和三山

大和三山の眺望。小高い山は左から香具山、畝傍山、耳成山。古代から続く万葉ゆかりの風景。

 奈良盆地の南部、橿原市に位置する「大和三山」は耳成山(標高139.7m)、香具山(標高152.4m)、畝傍山(標高199.2m)の総称だ。耳成山は火山の噴火で発生した独立峰で、『万葉集』では「耳梨山」と記されている。香具山は「天から降り来た山」という伝承により『万葉集』では「天香具山」と詠われ、三山で最も神聖視されている。「畝傍」は、田の畝のような尾根に由来する。古く『万葉集』に詠われた大和三山は、大和を代表する景観の一つとして現在も広く親しまれている。「大和三山」は、国の名勝に指定されている。

ページトップへ戻る
ローカルナビゲーションをとばしてフッターへ