城下の風景を歩く

備中松山城 岡山県高梁市

天険の地に佇む天守と古き町割を残す城下町

備中松山城は、日本で唯一、天守が残る山城として名高い。山間を悠々と流れる高梁[たかはし]川を天然の堀とし、急峻な臥牛山[がぎゅうざん]上に築かれた城郭は戦国時代、備中一円を支配するための拠点であった。
動乱と城主交代を繰り返しながらも城は往時の姿を留め、山峡の城下町には今も藩政時代の遺風が伝わる。

伯備線「備中高梁駅」から路線バスで約10分「松山城登山口」バス停下車、徒歩約30分で「ふいご峠駐車場」、そこから天守まで徒歩約20分。

市街地の北端にそびえる臥牛山の稜線に沿って築かれた山城。南北幅約16.5km、面積約200haに及ぶ広大な城域を持つ。標高430mの小松山の頂上付近にある近世城郭部分には、二層二階の層塔型天守をはじめ、二重櫓や三の平櫓東土塀(写真下)の一部が現存する。

備中松山城

岩盤と石垣が織りなす山城の造形美

中太鼓櫓跡からの眺望。備中松山藩の城下は清流高梁川に沿って発展し、高瀬舟による水運が藩政を支えた。

 「おしろやま」の名で親しまれる臥牛山は、「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」の4つの峰からなる。備中松山城は、これらの尾根筋に沿って全域に築かれた城郭を指す。城の歴史は、1240(延応2)年、秋庭重信[あきばしげのぶ]が備中一円を治めるために大松山に砦を築いたのが始まりとされる。その後、元弘年間(1331〜34年)に小松山まで縄張りが拡張され、戦国時代には臥牛山一帯に21もの砦を有する要塞であった。この地は、山陰と山陽を結ぶ要地であったため、領土拡大をもくろむ毛利氏、尼子氏、宇喜多氏らの戦いの舞台となり、以降も城主交代を目まぐるしく繰り返しながら、明治を迎えた。

 小松山の本丸には山城としては唯一の現存天守がある。山上へは、御根小屋[おねごや]跡付近、あるいはふいご峠からの登山道を往く。御根小屋とは、南麓に築いた平常時の居館と政務室を兼ねた御殿であった。かつて、御根小屋と天守とは太鼓による情報伝達が行われ、その中継地点の中太鼓櫓跡からは城下が一望できる。さらに進むと、大手門跡へと続く急な勾配の先に、そそり立つ岩盤上に組まれた勇壮な石垣が現れる。臥牛山は花崗岩質の山で、天然の巨石を巧みに取り込んでいるのが特徴という。重層的に築かれた石垣の迫力に圧倒されながら二の丸までたどり着けば、大唐破風と出窓の風格ある天守が姿を覗かせる。

城下の町割に残る藩政時代の営み

頼久寺(らいきゅうじ)庭園は、この寺を仮の館としていた小堀遠州の作庭と伝わる。愛宕山(あたごやま)を借景にした蓬莱式枯山水は、国の名勝に指定されている。

御根小屋にほど近い石火矢町には、武家屋敷の景観が往時のままに残る。通りの両側に連なる土塀、長屋門など格式ある門構えの家並みに城下町の面影が宿る。

郷土芸能の備中神楽に登場する神々のお面をかたどった「備中神楽面最中」。県産のもち米を使用した最中種に、大粒の餡を挟んだ備中名物。

 天守内部は籠城を想定した囲炉裏が切られ、「装束の間」を設けるなど、戦国期の城を彷彿とさせる。現在の天守は、1683(天和3)年に水谷勝宗[みずのやかつむね]の大修築によって完成したものと伝わるが、成立の年代は明らかではない。時代を遡れば、関ヶ原の戦いの後に国奉行として赴任した小堀政一(遠州[えんしゅう])が荒廃した城や御根小屋を修築していることから、水谷氏が改築した城の原形も小堀氏によるものと考えられている。

 城下は、町の西を流れる高梁川に沿って、山麓から南へ細長い竪町[たてまち]型に広がる。城下町が本格的に整備されたのも小堀氏の頃で、初めに本町、新町といった商家町が開かれ、その後職人町の鍜冶町や周辺の武家町が整備された。武家町は町人町を囲むように配置され、高梁川に注ぐ紺屋[こうや]川を外堀として、禄高によって「城内」と「城外」に区画された。旧折井家や旧埴原[はいばら]家の武家屋敷が残る石火矢町[いしびやちょう]を歩けば、石垣や門構え、連続する土塀に格式ある武士の暮らしがうかがえる。

 当時、城下の物資輸送は、高梁川を利用した高瀬舟が担っていた。その船問屋や両替商などで財をなした池上邸は、かつて松山往来と呼ばれた街道筋にある。通りには平入りの町家が建ち並び、厨子二階[つしにかい]や虫籠窓[むしこまど]、板暖簾の設えが風情を醸す。城下町高梁は、時を止めたように佇んでいる。

※城主が最期の折に装束を改める部屋。

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