洞川から再び川合に戻って天ノ川を下ると、天川村のもう一つの歴史を伝える場所がある。日本三大弁財天の一つ天河大辨財[てんかわだいべんざい]天社[てんしゃ]の創祀は飛鳥時代。開山には役行者も関わったとされるが、吉野に逃れていた大海人皇子[おおあまのおうじ]が壬申[じんしん]の乱の戦勝を祈願し、勝利を得て天武[てんむ]天皇となって社殿を現在の場所に建立したと伝えられている。
栃尾観音堂は以前は裏山の谷にあったが洪水で流され、現在の場所に移転。その折に瀬上家に伝わる護法神像も一緒に安置するようになった。
芸能の神様として全国に知られる天河大辨財天社。創建には役行者が関わり、天武天皇が現在の地に社殿を創建したと伝わる。
南北朝時代には、南朝方の拠点となり、公家らをかくまったのは天川村の人たちだ。朝廷とのそんな深い関わりを秘めた歴史が天川村にはある。太陽で光の帯と化した天ノ川は、杉の美林の山々の間を蛇行を繰り返して流れる。「すずかけの道」と呼ばれる道は大峯山と高野山を結び、弘法大師・空海も大峯山での修行の後にこの道を辿った。
そして江戸時代、やはり大峯山で修行した無名の遊行僧[ゆぎょうそう]もまた同じ道を歩いた。円空(1632―1695年)だ。美濃国に生まれた円空は、正式の僧ではなく、寺に属さず諸国を行脚しながら苦しむ民衆を救うために山の木を削り、訪ねた村々に仏像や神像を残した。病人には薬師像、災害に苦しむ村には不動明王、干ばつで苦しむ村には竜王の像を与えた。
生涯に約12万体を彫ったといわれる。天川村にはその円空の木像が16体も残されている。1672(寛文12)年と1675(延宝3)年の2度、円空は大峯山で修行し、「笙[しょう]の窟[いわや]」という修行場で厳寒の一冬を過ごしている。冬ごもりは命がけの荒行だ。その時に詠んだ歌が「大峯や天川に年をへて又くる春に花やみるらん」。
この最初の修行で彫ったとされているのが、山上ケ岳の大峯山寺に残る阿弥陀如来像、天河大辨財天社には大黒天像が残るが、いずれも非公開の秘仏だ。そして4体が天ノ川を下った集落に残っており、栃尾地区にある「栃尾観音堂」で拝観できる。中央には背丈137cmの聖観音菩薩立像、向かって左に大弁財天女立像(85.7cm)、右に金剛童子立像(84.3cm)と護法神像(49.7cm)が祀ってある。
栃尾観音堂を管理する瀬上さん。円空は大峯山での修行の後、栃尾の集落に立ち寄り、瀬上家に滞在して毎日、仏像を彫っていた。
円空の足跡は西日本にはほとんど認められず、16体(内10体は個人蔵)もまとまって円空仏が残っているのは関西では天川村だけだ。この観音堂を1年365日、正月も休みなく世話をしているのが瀬上[せのうえ]章さん(74歳)。約300年、村の人々によって大切に守り続けている。「氏神さんより、お参りするのはなんでも円空さんやね」と瀬上さんは話す。
瀬上さんは気軽に円空仏を開帳した。その瞬間、ノミ跡を残した素朴な像だが、なんとも優しげで親しみ深い微笑みに「ああ、円空さんだ」と思わず呟[つぶや]いていた。仏師の精緻な技巧に比べて円空仏は大胆な鉈彫[なたぼり]でノミ跡も荒々しく、造形は自由奔放で唯一無二。無造作のようだがその素朴さには人を惹き付ける微笑みと、無垢の信仰がある。
左の金剛童子立像、右の護法神像ともに杉材。護法神像は円空がこの地で初めて作仏した像。その力強く鋭い造作はとりわけ大胆で、個性的なその後の円空仏の作風が読み取れる。
4体の円空仏の1体、杉材で彫られた大弁財天女立像。荒削りの素朴な像だが、その微笑みにはなんともいえない癒しがある。
板画家の棟方志功[むなかたしこう]は円空仏を見て「おれの親父がいる」と頬ずりしたという逸話がある。中でも護法神像はその後の円空仏の大胆な造形の最初のものでとても貴重だ。この護法神像は代々庄屋の瀬上家に伝来したもので、「円空さんは我が家に逗留して毎日裏山の岩屋で仏像を彫り、風呂や食事に来たと聞いております」と言うのだ。
瀬上さんはさらに、「子供が悪戯[いたずら]すると怖い顔の護法神像を背中に担がせてしつけたり、男の子らは川に浮かべて遊んだりしたものです」などという逸話も披露してくれた。聖観音菩薩立像などの三尊像は、村では長らく空海の「一夜の作」と伝えられてきたが、村の円空研究家の熱意で1972(昭和47)年に学術調査が行われ、正式に円空作と判明した。
聖観音菩薩立像の背面の胎内から見つかった胎内仏。大日如来坐像でサイズは5.6cm。硬玉の仏舎利と、梵字が書かれた紙片が納められていた。
栃尾観音堂は一躍注目を集め、今では全国から天川村の50人足らずの小さな集落に人がやって来る。観音堂は天ノ川を挟んで西向きに建っていて、観音堂に夕陽が差すと、辺りの山々は燃え上がるように輝く。この天川村の山河を、高野山へと赴く空海も、そして円空も眺めていたに違いない。