神倉山から眺めた新宮の市街地と熊野灘。手前の巨石がゴトビキ岩で、ゴトビキとはカエルのこと。『わんぱく時代』には神ノ倉のゴトビキ岩として、たびたび登場する。

特集 紀南の空、山、海 望郷詩人・春夫の新宮

PAGE2/2

野ゆき 山ゆき 海辺ゆき

 春夫がとりわけ故郷、新宮を克明に描いているのが『わんぱく時代』だ。1957(昭和32)年から『朝日新聞』に連載された自伝的な小説で、後年の名作といわれる春夫65歳の時の作品である。まだ鉄道がなく、新宮へは大阪から急行船と称する汽船で一夜の後、勝浦港に朝早く着き、人力車でさらに約20キロメートルという頃の話で、主人公の「僕」(春夫)が新宮第一尋常小学校の児童時代から物語は始まる。

 「僕の家は丹鶴城[たんかくじょう]のお城山の西南のふもとにあって、北にはその山を負い、南には城のお堀の池に臨み、町の大通り、本町の東の部分下本町の東の端に位して、門は遠く上本町の西の詰にある速玉神社(一般に呼ぶ権現さま)の鳥居と相対している」。家は父祖9代続く医者で、「この地方最初の病院」を開業している。

 そんな家の長男「僕」の住む新宮と、熊野地という隣接する地域間のあつれきから、時に子どもらは殴り合いつかみ合いになる。新宮は武家や旦那衆の町、東の熊野川に沿った熊野地は漁業や農業、筏流しなど材木に関わる地区。ある時、熊野地に住む崎山という大柄で、利発だが乱暴なライバルが転校してきた。そして勃発した子ども戦争。しかしやがて「僕」と崎山は互いに尊敬し、友情で結ばれていく。

 「中学校は町の西南隅、千穂ケ峰の南のはじ、神ノ倉のゴトビキ岩が落ちかかるような崖下にあった」。現在の新宮高校も同じ場所にある。伸びやかに生きる少年たち、それぞれの人生を模索する懸命な姿が、新宮の自然を背景に瑞々しい文体で描かれた痛快な青春物語だ。文学を志して上京する「僕」、社会に翻弄される崎山…。なかでも時の政府が社会主義活動家を弾圧した「大逆事件」で、父親の友人である大石誠之助や親友の崎山が収監され獄死したことに、「僕」は深く悲しみ、激しく憤る。この章の春夫の筆は鋭く、痛切だ。

1958(昭和33)年に刊行された『わんぱく時代』特装本。春夫は単行本のあとがきとして「自伝的内容を持った虚構談」と述べ、6歳から17歳までの春夫の青春物語が瑞々しい筆致で描かれている。
(佐藤春夫記念館蔵)

丹鶴城跡から見る熊野川。春夫が少年の頃には、川には帆を張った船や筏が往来し、川原には川原家という簡易小屋が立ち並んだ。

新宮の地名の由来となった熊野速玉大社。神倉山のゴトビキ岩に降臨した熊野の神を祀るため、この地に新たに宮を遷した。

『わんぱく時代』で、春夫らが遊び場にした丹鶴城(新宮城)跡への登り口。この近くに春夫が育った家、熊野病院があった。

 物語の終わりでは、行方知れずであった初恋の女性、崎山の姉、昌子が幸せに暮らしていることを知った「僕」は、心の底から安堵する。そのエピローグに挿入された春夫の詩『少年の日』の「野ゆき山ゆき海辺ゆき…」。この詩は、昌子と遊んだ日の淡い恋心を詠んだものであると独白する。少年時代の甘酸っぱい記憶が甦り、「僕」は小説の最後をこう結ぶ。「(お昌ちゃんと)互いに白髪の翁[おきな]と媼[おうな]とが遠いむかしのほのぼのとした恋心を思い出に語るのもまた、人生の楽事かと思う僕だから」と。

 そして、この『わんぱく時代』の物語をいっそう魅力的にしているのが、描かれる新宮の風物や町の景観である。「町の写真師、中学時代の友人にむかしの土地を二十ケ所ばかり指定して撮影してもらった」という春夫は、「(丹鶴城の)本丸に立つと太平洋がひろびろと水平線まで一目に見える」「小浜へ出て見ると、風をはらんだ三反帆が二つ三つ、川をのぼっていた」「木場は川口に近く、製材工場に隣接している」など、小説の随所に詳細に町の様子や人々の暮らしぶりを描き出している。

 1959(昭和34)年、悲願だった紀勢本線の全線開通の祝いに、春夫は新宮節にこんな替え歌の詩をつけた。その一節は「熊野たのしや長汀曲浦[ちょうていきょくほ] 窓に身飽かぬ海の色」。春夫が生涯愛した新宮。山と海と川とが織りなす景観は、旅人にさえ心の原風景として望郷心を抱かせ、どこか懐かしく、とてもふくよかな気持ちになる。

ページトップへ戻る
ローカルナビゲーションをとばしてフッターへ