- 落語家。本名・田中登。1953(昭和28)年、和歌山県生まれ。1972(昭和47)年、5代目文枝(当時・桂小文枝)に入門。現在、公益社団法人上方落語協会理事。「ふるさと寄席、文福一座」座長として全国を巡演。和歌山芸能県人会会長や観光大使として故郷をPR。大相撲評論家として、相撲誌、新聞、ラジオなどで活躍中。東西約800人の落語界で唯一の河内音頭取りで相撲甚句とあわせて「エンカイティナー」の異名あり。和歌山県文化奨励賞、日本「放送演芸大賞ホープ賞」など受賞。西村京太郎トラベルミステリーを読みながらの鉄道一人旅が趣味。
皆様、JR西日本の列車に、ご乗車頂きまして、誠にありがとうございます。私は、落語家の桂文福と申します。つたないメッセージですが、私の文を読んで福をよんで頂ければラッキーです。私事ですが、この春、落語笑売、40周年を迎えさせてもらいました。誠に、おめでとう、いや、ありがとうございます。
私のふるさとは、紀の川平野の桃源郷の桃山町(現・紀の川市)、「あら川の桃」が名産ですが、私の生まれた桃山の安楽川村には駅がありません。なので、駅前もありません。駅前再開発なんてありません。今だに、のどかな田舎の風景ですが、この町で一番にぎわうのが、毎年、4月上旬に行われます「桃山まつり」。1目10万本といわれる桃畑の桃の花が満開となり、ピンクのじゅうたんを敷いたような美しさ。このまつりのポスターをJRの主要駅にはってもらうのですが、最寄駅を書かなくてはなりません、でも、ないのです、駅が…。そこでポスターをよく見ますと、「最寄駅、和歌山線下井阪駅下車、徒歩35分」、んなあほな!!地元の方々誰も最寄駅とは思っていません(笑)。でも年に一度ぐらいのんびりと歩いて現地に行くのもいいでしょうね。
さて、私は、落語家になるために大阪に来たわけではありません。県立粉河高校を卒業後、集団就職で大阪、鶴橋の大日本印刷に入社したのです。大阪へ旅立つ日、父親が単車の荷台に私のふとん袋を1つ積んで、和歌山線の船戸駅(下井阪駅同様、ここも今は無人駅)へ。当時は、和歌山市内に行くのに、村からバスに乗り、この船戸へ。まだ、SLがけむりをはいて走っていましてにぎやかな駅でした。ここから駅便で荷物をおくり、私は、和歌山駅から阪和線にのりかえて天王寺へ。ここも当時は、どんつきで、井沢八郎さんの名曲「ああ上野駅」の感じでした。花の浪花におどり出て、落語の世界にはまった私は、昭和46年秋に師匠(当時・桂小文枝、後5代目文枝)に入門志願。第一声が「おいやん!!弟子にしてけえ!!わえおまんのファンやしょ。落語ておもしゃいわ、弟子にしてくれな、あかなしてよ!!」と紀州の標準語?でたのみましたら、師匠は一言「いね!!」(帰れ!!)。それでも熱心に通い、弟子入りを許して下さいましたが、今では考えられないほど、我々は「金のたまご」でして工場側が、次の春、新入社員が入るまでやめないでくれとの事で、正式に47年春に入門となり丸40年たったのです。
ふるさとの人々には、若年の頃から応援して頂きありがたい事です。我が郷土、和歌山県は紀伊半島に広がる広い県で紀北、中紀、紀南(白浜は、南紀白浜といいますが…)とわけられ、それぞれ、多少、文化も方言もちがいます。私の母方の里は、中紀の御坊で、かつてここから、小結まで出世した和歌乃山関がでました。曙関、魁皇関、若貴兄弟らと同期の関取で、しこ名もずばり和歌乃山、ふるさとを背負っていましたので、私の提案で、本場所中、御坊駅の線路沿いに、和歌乃山関の力士のぼりを8本たててもらいました。白浜や勝浦の温泉旅行に行かれる多くの旅人がくろしお特急の車窓から見て下さったと思います。
紀南の熊野地域にも思い出がたくさんあります。熊野古道や熊野三山、那智の滝等が、世界遺産になったのを記念して、我が師、5代目文枝が「熊野詣」という落語を作り、その記念碑が「道の駅、熊野川」に建立されましたが、昨年の台風で大きな被害にあいました。しかしこの熊野杉の碑は、きせき的にかたむいただけで流されず残りました。我々は、復興のシンボルとして極楽寄席にいるおやじ(5代目文枝)と地元の方々のきずなを守り今夏、6代文枝を襲名する一門の総領、三枝を中心に深くかかわっていきます。海の幸、山の幸、フルーツ王国、人情あたたかい和歌山へ、つれもていこら!!皆さん、JRで、おいなーよ。