王子山公園から眺めた仙崎の町の夕暮れ。町の西側の深川湾に陽が沈む。

特集 静かに心に響く みすゞの詩情をたどる

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仙崎の風土、自然を慈しむ優しいまなざし

  角のような形で砂州が日本海に突き出た、山口県長門市仙崎。仙崎湾と深川湾に挟まれた細長くて平坦な町は瓦屋根の家々が海岸近くまで迫り、対岸には狭い瀬戸を隔てて青海島[おおみじま]が日本海の荒波をさえぎるように東西に横たわっている。三方を海と接し、古くから漁業の盛んなこの町が金子みすゞのふるさとだ。

 「仙崎八景」と題する作品のなかの「王子山」で、みすゞは仙崎をこう歌っている。「木の間に光る銀の海、わたしの町はそのなかに、龍宮みたいに浮んでる。…王子山から町見れば、わたしは町が好きになる」。王子山は仙崎の対岸にある小高い山で、そこから眺める町は家々全体が海に浮かんでいるように見える。朝焼け夕焼けの美しい風景だ。

 この龍宮のような「仙崎村第七百九十番屋敷」に、みすゞは 1903(明治36)年に生まれた。本名テル。生家ははっきりしないが、みすゞが育った「金子文英堂」は町のほぼ中央にあり、その跡地には当時を再現した「金子みすゞ記念館」が建っている。金子文英堂は、母ミチの妹の嫁ぎ先であった下関の上山文英堂の世話で営んだ書籍や文房具の店で、みすゞが3歳の時に父親が他界した後、20歳までみすゞはこの家で過ごした。

 「みすゞ通り」は映画のセットのようにこの町の雰囲気を残している。大正、昭和のはじめの頃の浜は大漁で賑わい、魚を追って方々から船が寄港し、通りも町も活気に溢れていたとお年寄りはそう教えてくれたが、それも昔語りだ。代わって今はみすゞの詩情にふれる人々が仙崎を訪れる。

仙崎から下関へ移り住んだ20歳のみすゞ。1923(大正12)年5月撮影。下関での新しい生活は、みすゞに旺盛な創作活動をさせる転機となり、次々と童謡雑誌に作品を投稿した。
(写真提供:金子みすゞ著作保存会)

「みすゞ通り」に面した家々には、みすゞの詩を趣向を凝らして掲げてある。どこを歩いても、みすゞの詩と出会う。

青海島の通にある鯨墓。1692(元禄5)年に建立されて以来、地元の人々によって手厚く護られている。

 みすゞの詩の何に人は惹かれるのだろう。「大漁」はなかでも人気が高い。イワシの大漁で浜は祭りのような騒ぎだが、最後にみすゞのまなざしは残されたイワシの家族に向けられる。人はそこに「はっ」とする。「みすゞさんの原点は、命あるものに対する慈愛、やさしさと謙虚なまなざしではないでしょうか」と話すのは「金子みすゞ記念館」の草場睦弘さん。それは、信仰心の厚い仙崎の土地柄だという。

 信心深く、漁をする者は「祈り」や「弔い」が生活に根ざしている。漁の無事を祈り、海の恵みを生活の糧とする感謝。捕鯨基地として知られた青海島の「通[かよい]」には漁港を見下ろす高台に鯨墓[くじらばか]があり、寺には戒名を授けた鯨の過去帳も残る。今も毎年鯨の法要を行っている土地柄だ。狭い地域に寺が6つもあって、境内には「魚鱗成仏」の碑があり、やはり毎年法要を行い、奪った命を弔っている。

 そうした仙崎の風土に感性はさらに育まれ、みすゞは身近な小さな命や自然、風景にさえ優しいまなざしを向けた。「仙崎八景」は彼女の創作で、みすゞの独自の感性が捉えた景観だ。八景は「王子山」のほか「波の橋立」「祇園社」「小松原」「花津浦」「大泊港」「極楽寺」「弁天島」がある。「弁天島」は、あまりにかわいい島だから、北の国の船乗りが綱つけて貰ってゆくよ、という寓話的な詩だ。その弁天島は港湾整備で昔の姿をとどめないが、仙崎の海と空の青さ、小さな島々はみすゞが眺めた風景のままに今もある。

「みすゞ通り」には蒲鉾屋や乾物屋などが並ぶ。軒上に看板を掲げているのが再現された「金子文英堂(金子みすゞ記念館)」。

仙崎は下関に次ぐ県下第二の漁港。早朝の魚市場は活気に溢れ、イワシや剣先イカ、アジやタイなど種類豊富な魚が水揚げされ、次々に競りにかけられる。

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