Essay 出会いの旅

Anno Mitsumasa 安野 光雅
1926年、島根県津和野町生まれ。画家、絵本作家。1974年度芸術選奨文化大臣奨励賞、最も美しい50冊の本賞(アメリカ)、国際アンデルセン賞などを受賞。1988年には紫綬褒章を受ける。故郷津和野には「安野光雅美術館」がある。主な著書「安野光雅・文集(全6巻)」(筑摩書房)、「津和野」(岩崎書店)ほか多数。

宮島口

 5年くらい前のこと、見知らぬ女の人から電話がかかってきて「あなたはMさんのお兄さんではないか」という。それからいろいろ聞いた事を綴り合わせて思うに、その人は若い頃、弟となにほどかの約束をした人だったらしい。わたしは、なにもわからないから、ぶっきらぼうな返事しかできなかったが、先方に縁談が持ち上がり、弟との関係は家の者の猛反対にあって、二人は別々の人生を歩もうということになったらしい。その人はお嫁に行く前の日に別れの挨拶にきたという。わたしはその挨拶の部分だけしか知らない。弟は「挨拶になんか来ないほうがいいのに」と苦笑いをして見せた。わたしも、「芝居じゃないんだからね」といっておしまいになった。
 それから数十年たったのである。
 電話の人から「結婚した相手は先年亡くなり、いまは一人でいます」などと言われてもわたしはどうすることもできないではないか。
 そのころ、弟は胃ガンのために、すきな絵を描くだけで、家から出ることはできなかった。弟のその後のことを知りたいらしかったが、わたしは敢えてなにもしらぬ立場をとるほかなかった。病床の弟へ、見知らぬ女の人から電話があったことを話せる状況ではなかったし、電話の女の人が考えてるほど、わたしは何もしらないのだから。
 「考えてるほど」というのは、電話を切るまえに「宮島口に住んでいます」と2度いわれたからである。くわしいことは知らないが、何しろ別れの挨拶に来た人らしかったから「宮島口」のことも聞こえなかったふりで電話を置いた。
 そういえば、昔から「宮島口」という名があったのだろうか、子どものころ修学旅行で行ったときは、そこがフェリーの発着地点だとは知らなかった。
 わたしの言えたギリではないが、昔は船がわたしたちを待っていた。いっしょに移動することになっていた三人の子が居ないばかりに、船が出られなかったらしい。わたしは、福禄寿の玩具に夢中になっていたのだ。ひねるとキュッと音がして、中からまた福禄寿が出てきた。何度あけても少し小さいのが出てきた。やっと決心して買った。呉の軍港で買った小野寺秋風という漫画家による「水兵の一日」のカードと、福禄寿が修学旅行のすべてだった。三人が気がついたとき例の土産物屋の通りには誰もいなかった。わたしたちは船に向かって走った。船の乗り口に、仁王立ちになっていた藤本先生が「みんなに謝れ」と言った。わたしは帽子をぬいで「おくれてごめんなさい」と謝ったが、先生はそれほど怖くなかった。
 小郡という駅があった。今は新山口という、そこで乗り換えて、津和野へ向かうが、下郷とか大歳といった駅名を今も覚えている。「今は山中 今は浜」などと唱歌はのんきなことを言うが、わたしにとっては福禄寿に勝る外の風景はなかった。
 わたしはおそるおそる、その福禄寿をとりだし、キュッとひねったら少しだけ小さい、福禄寿が出てきた。そしてまたキュッとひねったら中にいた福禄寿が、汽車のまどの外へ飛び出したのである。泣くことも叫ぶこともできない、汽車は無情に走る。あの中にはまだたくさんの子がいて、最後には豆粒ほどの子がいるはずなのにと、わたしは宝物を永遠に失ったことを悔やみ、心の中で泣いた。
 いまさら惜しんでもしかたがない。だれか見知らぬ人が電話でもくれて、何かおとしものをしませんでしたか、などと言われても、あまりに昔話になってしまったのだ。

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