Blue Signal
September 2009 vol.126 
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特集[愚に徹し、一衣一鉢の流浪の行脚 良寛の求道] 名主の家督を捨て、越後から備中玉島へ旅立つ
悟りへの道は、無心の実践の中にある
僧でなく、俗でもなく慈愛に生きる
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須磨寺一山の中心となる本坊と書院。良寛は「須磨紀行」の冒頭で、〜寿(す)までらの むかしを問えば 山桜〜と句をしたためている。
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 円通寺を後に、杖と、一衣と一鉢だけで諸国をさまよう良寛の姿は、まさに「大愚」と呼ぶにふさわしい。野宿をし、人家の軒先で雨をしのぐという流浪のうちに、良寛は自然と向き合い、詩を詠み和歌を詠い、そして粗末な紙に書をしたためた。それは、孤独な貧しい生活に耐える修行であった。その漂泊の旅で、良寛がひたすら求めたものは、理屈ではなく無心の実践という境地だ。

 その足取りは不明な点が多く、残された和歌や自筆の『関西紀行』の一部から推察するしかない。玉島を後に、赤穂、姫路、高砂、明石と山陽道を東へと辿って、須磨寺に至った。ちょうど梅の季節で、その時のようすを「梅の香りが墨色の衣に移るほど匂ってくる…」と、関西紀行の一節である「須磨紀行」に記している。

 須磨から海辺に沿って、神戸、そして三輪(三田)、箕面の勝尾寺と迂回し、丹波路を京都へと向かい、京都から南に向きを変えて大坂へ。さらに足を延ばして奈良の吉野、紀州の高野山へと赴いた。

 「吉野紀行」には、「里へ下り、粗末な家の軒下に立ち一夜の宿を乞う。夜具さえないので寝られずにいると、宵の間は老人が松の火を灯し、小さな籠を編んでいる。何かと尋ねると、吉野の里の花筐という。吉野蔵王権現の散りゆく桜を惜しんで、拾って花籠に盛るらしい。しみじみとした心打つ話なので、旅の土産にしよう」と記している。

 そこから、険路の熊野本宮、新宮へと旅をつづけ、やがて鈴鹿の険しい峰々を越えて、大津に出て、琵琶湖に沿って、彦根、長浜へと北上する。こうした行脚を通じて良寛は、宗派を越えて先々に訪ねた寺院の高僧の説法に無心に耳を傾け、ある時は西行や芭蕉など尊敬する先人たちの足跡を辿って、自ら求める生き方の手がかりを一つ一つ見出そうとした。物事にこだわらず、自然にまかせるという境地にいたる求道であった。

 そうして5年の流浪の後に、良寛は帰郷を決意する。北国街道を辿ってようやく越後に帰郷した良寛だったが、実家は没落、父母もすでになく、出雲崎を通り越して寺泊の海岸の塩炊き小屋を仮寓とする。やがて、国上山山腹の国上寺の五合庵で暮らす。その後、近隣の庵を転々とするが、48歳で再び五合庵を居に定めた。冬には深い雪で埋もれるこの質素な庵で、独りで12年を過ごした。

 山を下りて時に托鉢に出かけ、歌を詠み書に親しみ、子どもらと遊んだ。世の中の名利とは一切無縁で無欲と無心に生き、そして誰からも慕われながら良寛は74年の生涯を終えた。残された慈愛に満ちた多くの漢詩、和歌、俳句の書は今日も人々を魅了し心を打ちつづける。それは、今日、失われつつある何か大切なものかもしれない。
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須磨寺仁王門前の龍華橋の傍らに建つ「須磨紀行」の良寛碑。
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当時の網敷天満宮付近は、須磨の浜に沿って松林が伸び、打ち寄せる波の音が近くで聞こえた。良寛はここで、〜よしやねむ すまのうらわの なみまくら〜と詠んでいる。
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蔵王権現を祀る吉野金峯山寺の蔵王堂。
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新潟県国上山の木立の中にひっそりと佇む五合庵。
イメージ 『関西紀行』の一部「吉野紀行」。良寛は帰郷への旅の途中、敬愛する西行の歌枕を訪ねて吉野を訪れ、旅の一夜の出来事をつとにせむ 吉野の里の 花かたみの句を添えて日記風に書き記している。(良寛の里美術館蔵)
僧でなく、俗でもなく慈愛に生きる
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『関西紀行』の一部「須磨紀行」。須磨寺を訪ねた良寛は、あれこれするうちに日が暮れたので宿を求めたが、独り者には簡単には貸してくれない。心を落ち着けて「まあいいか」と網敷天神社の森で寝る。時折、梅の香りが墨色の衣に移るほど匂ってくる、と記している。(糸魚川市歴史民俗資料館蔵)
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良寛が葬られた新潟県長岡市にある隆泉寺境内に建つ良寛像。
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良寛が托鉢に使った錫杖(しゃくじょう)。(良寛記念館蔵)
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良寛愛用の硯。(良寛記念館蔵)
 
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