Blue Signal
September 2009 vol.126 
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特集[愚に徹し、一衣一鉢の流浪の行脚 良寛の求道] 名主の家督を捨て、越後から備中玉島へ旅立つ
悟りへの道は、無心の実践の中にある
僧でなく、俗でもなく慈愛に生きる
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円通寺本堂。良寛は師国仙和尚のもとで12年間の厳しい修行を行った。
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 円通寺の修行の厳しさは本山の永平寺に勝るとも劣らぬほどといわれ、良寛がその寺風を国仙和尚に問うと、「一に石を曵き、二に土を運ぶ」と和尚は答えたという。それはつまり、理屈や能書きを言う前にただ実践あるのみ。ひたすら坐禅をし、日常の労働に励む中に悟りの道があるというものだ。

 円通寺ではまさに坐禅三昧の日々だったに違いない。だが、良寛にまつわる逸話は心身を厳しく鍛錬する修行僧とは別の一面だ。町に托鉢に出かけた良寛は、貧相な身なりゆえ泥棒と間違えられ捕らえられた。だが、弁解は一切せず、厳しく問い詰められて、ようやく「この風体では疑われても仕方がない、私に責任がある」と答えたという。

 人は一旦疑われると何を言ってもなかなか信じてもらえないものだ。だから、天運に任せる、つまり自然の成りゆきに任せたという。良寛には別に「大愚」の称号があるが、それは愚者の意味ではない。周囲には愚かに見えても、愚かさを超えたところに大きな悟りがあるというのである。

 良寛が究めようとしたのは、尊敬する宗祖道元の教えだ。すなわち、人として四つの節度に務めること。むさぼらない、慈しむ心、自己を抑制し、自分を偽らない。それを一途に究めることは、傍目には愚かに見えるかもしれない。ところが、師の国仙和尚だけは、良寛の内にある徳を見抜いていたのだ。大愚の号を授けたのも和尚で、それは世間体や他人の目にまどわされることなく、無心に我が道を究めようとする良寛への尊称であった。 

 和尚は死の間際に、そんな良寛を枕元に呼び寄せて、印可[いんか]の偈[げ](卒業証書)と一本の杖を与えた。印可にはこんな漢詩が添えられていた。「お前は一見愚のように見えるが、お前が得た道はゆるがぬ寛[ひろ]い道だ。さあどこへ出かけても良い。到るところにお前の世界がある。お前の性格に合った気ままな旅をつづけるがよい」。

 良寛39歳。師を失った良寛は、寺に安住することを選ばず、説法もせず、和尚の言葉どおりに授かった杖を手に、流れる雲のように托鉢の旅に出た。
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良寛が12年の間、他の修行僧とともに寝起きした衆寮。
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円通寺公園に建つ石碑。円通寺の修行時代を回想した良寛直筆の漢詩で、「円通寺に来て何年も過ぎた。門前は千戸ほどもある町だが知っている人は誰もいない…」と、玉島での孤高な修行ぶりを記している。
悟りへの道は、無心の実践の中にある
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本堂前庭に建つ雲水時代の良寛像。
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