Blue Signal
September 2009 vol.126 
特集
原風景を行く
出会いの旅
うたびとの歳時記
鉄道に生きる
美味礼讃
Essay 出会いの旅
高橋 睦郎
1937年、福岡県生まれ。詩人。詩集26冊、句集7冊、歌集6冊ほか、著書多数。2000年度紫綬褒章受章。大阪芸術大学文芸学科客員教授。国立国際日本文化研究センター在外研究員。
大阪は大河内
 2007年秋から大阪芸術大学で月に一度教壇に立つようになって、それまで年に何度も訪れて知ったつもりになっていた大阪が、まったく別の様相を呈してきた。

 これまで知っていた大阪は大阪市内、夜の遊び場の豊富さに較べて、昼はいささか殺風景の印象が強い。その印象の拠って来たるところは、ひとえに緑の少なさにある。私の知る限り、中之島公園、靫公園、難波宮址、大阪城址のほかは、そこここの寺社の境内程度ではなかろうか。

 昔からそうだったかといえば、そうでもなくて、江戸時代などはけっこう緑の多い水の都市だったようで、木村兼葭堂のような大博物学者が出現したのも、自然に恵まれた環境あってのことだろう。そんな自然環境がみごとに無くなったのは、新時代の実業家となった商人達が、住まいを兵庫県の住吉・芦屋・垂水などに移し、大阪を事業だけの場としたことによると、これは京都の国立国際日本文化研究センター在外研究員として、「関西モダニズム」という研究プロジェクトに参加して教わった。

 ところが、大阪も市内を離れると、けっこう緑が深い。東京から新幹線で新大阪で降りて、大学まで通っているが、近づくにしたがって田園の匂いが濃くなる。大学の所在地は大阪府南河内郡河南町東山。まさに河内の中の河内である。

 百科事典のたぐいを見ると、河内とは「旧国名、現在の大阪府の西北・西南部を除いた大部分の地域にあたる」。古代においては「畿内に属する大国(《延喜式》)。河内国の名称は北境にあたる淀川の〈川の内の方〉という意味に基づくと考えられている。記紀をみるとこの国名のほかに〈大河内[おおしこうち] 〉〈凡河内[おおしこうち] 〉の名がみえるが、大化前代に国造[くにのみやつこ]であった凡河内氏の勢力地であったことによるもので、この名称のほうが古く、そのときの地域は後の河内国よりも広範囲にわたり、和泉・摂津に及ぶものであったと推測される」(平凡社『世界大百科事典』より)。

 まさに河内こそが大阪府のおおもとであり、古代史にいわれる河内王朝も、北九州から瀬戸内海経由、畿内に入ってきた勢力が上陸し、ここの淀川と大和川の沖積地の肥沃な恵みによって成立したものだったのだろう。おそらくこの河内王朝の記憶は、王朝が大和に入ったのちも歴史の深層心理ともいうべき闇に深く残った。記紀の伝える倭建命[やまとたけるのみこと]の化した八尋白智鳥[やひろしろちとり]が最後に降り立ったのも、その大河内の領域に聖徳太子が自らの墓を定めたのも、孝徳朝と聖武朝二度の難波宮が営まれたのも、

はるか時代を下って准太上[じゅんだいじょう]天皇的高みに登った太閤秀吉が大坂城を築いたのも、深層心理の河内王朝からの呼び声に応えてのことだったとはいえまいか。

 江戸時代の三都、江戸が政治の、京都が文化の、大坂が経済の、それぞれ中心だったことを思えば、現在の大阪の状況はいささか厳しい。その原因の一つは、私の独断と偏見によれば市内の緑の軽視にあるのではないか。日本人本来の信仰によれば、神々は緑深い森に降臨し、年々の豊饒をもたらした。現在の経済といえども、その根は原始古代の年々の豊穰にあるはずだ。経済の活性化という神々に降りてきてもらうには緑の回復が急務。河内にはまだまだ豊富な緑を砂漠のような大阪市内に広げること。つまりは大阪の大河内への先祖還りだ。

 たとえば、わが大学に園芸学科を設け、有能な緑化の専門家を送り出すのはどうか。室町幕府東山殿に近侍した能阿弥・芸阿弥を見るまでもなく、園芸は他のどんな芸術にも劣らない立派な芸術だ。緑の芸術家は現在の大阪に限らず、日本中、世界中に切実に待たれているはずだ。

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