Blue Signal
July 2009 vol.125 
特集
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鉄道に生きる
美味礼讃
特集[句と絵の世界を行き来した芸術家の彷徨  蕪村の旅] 春の海 終日のたり のたりかな
夏河を 越すうれしさよ 手に草履
春風や 堤長うして 家遠し
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与謝野町を流れてきた野田川は阿蘇海に注がれる。その向こうに横たわるのが天橋立で、外海となる与謝の海とを分ける。
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 蕪村が丹後を訪れた経緯には、前述とは異なる別の口伝がある。蕪村の母げんの生地とされているのは、宮津市の西の山を一つ越えた与謝村、現在の与謝野町与謝だ。阿蘇海に注ぐ野田川沿いの、三方を山に囲まれて南北に細く伸びた田園地帯である。酒呑童子で知られる大江山を間近に仰ぎ、緩やかな斜面に段々に続く稲田の風景が美しいところで、「丹後ちりめん」の里としても知られる。南の与謝峠を越えると京都に至る。

 丹後時代に蕪村が発句した数少ない句「雲の峰に 肘する酒呑 童子かな」がある。夏の空に入道雲がわき立ち、恐ろしい酒呑童子が雲の峰に肘をついて睨んでいる姿を詠んでいる。この与謝野町に伝わる話とは、母げんは、与謝村の農家の生まれで、早乙女として大坂に奉公に出た。そして、奉公先の主人と縁ができて蕪村を産むが、周囲の目をはばかり、赤子の蕪村を連れて里に戻る。げんは、やがて宮津の畳屋に嫁ぐが、子どもの蕪村は養父とそりが合わず、母も早く亡くなり、与謝村の隣、滝村の施薬寺に預けられ、住職に書や画を学んで育ったというのだ。

 この口伝では、与謝村は蕪村の故郷ということになり、宮津の見性寺の俳諧仲間は竹馬の友であったということになるが、真偽は定かではない。ただ、施薬寺には蕪村初期の傑作といわれる『方士求不死薬図屏風[ほうしふしやくをもとめるずびょうぶ]』が遺されている。丹後半島に古くから伝わる徐福伝説を画題にしている。「夏河を越す…」の句は、施薬寺へと向かう途中、施薬寺の前を流れる滝川を渡るときに詠んだ句ともいわれる。そこには、母の面影が残る与謝村へ、自らの古里に向かうはやる気持ちのうれしさも詠み込まれているのではないだろうか。

 与謝野町にはげんの墓と言い伝えられる墓所があり、谷口家がずっと墓を守っている。ご当主にもその真偽は不明だが、蕪村研究者や多くの愛好者が絶えず墓参りに訪れるという。動機や経緯、諸説はともかく、3年以上に及んだ丹後滞在の後、京都に居を移し、蕪村は与謝を名乗った。これも一説だが、与謝の娘を妻に迎え僧侶の身分を捨てて還俗したといわれる。この丹後時代を境に、蕪村の作風はよりのびやかに大胆に、表現の豊かさも増してくるようになる。

 蕪村は俳人、画人として江戸期を代表する巨匠へと大成していく。頂点を極めつつあった蕪村は、俳諧では二世夜半亭を襲名し、画人としては池大雅と『十便十宣帖[じゅうべんじゅうぎじょう]』を競作する。そして、『春風馬堤曲[しゅんぷうばていきょく]』という、これぞ蕪村の独創というべき和漢の詩の形態を渾然一体とした全三十三行、十八首から成る作品を1777(安永6)年62歳の時に創作している。

 春風や 堤長うして 家遠し

 『春風馬堤曲』は、大坂に奉公に出た娘が藪入りの里帰り、長柄の堤防を故郷の家路へと急ぐ道程と情景を描いている。そこには母と同じ境遇の娘に重ねた、母の面影が残る毛馬への郷愁を読み取ることができる。生涯一度として毛馬に戻ることはなかったが、この句には、与謝村へと急ぐ母の姿、毛馬へ帰る蕪村自身の姿がはっきりと浮かぶ。

 京都四条烏丸に東山を眺めて暮らし、生涯、金銭的には窮乏した蕪村だが、人の面倒見もよく、誰からも親しまれ好かれたという。1783(天明3)年、蕪村は68歳で「しら梅に 明くる夜ばかりと なりにけり」の句を残して世を去った。京都市東山山麓の金福寺境内にある、敬愛する芭蕉碑の側に蕪村は永眠している。。
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与謝野町の施薬寺に遺された『方士求不死薬図屏風』。丹後新井崎に古くから伝わる徐福伝説を描いている。画面左の腕を組んだ方士が、秦の始皇帝の命で不老不死の薬を求めて丹後に辿り着いた徐福。網で覆われた壺が不老不死の薬。
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施薬寺の前を流れる滝川。母げんが生まれたという二ツ岩とは谷一つ違い。
春風や 堤長うして 家遠し
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施薬寺。一説には蕪村は子どもの頃、施薬寺に預けられ、住職に学問と画を習ったという。
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蕪村が復興に奔走した、京都市東山の金福寺の芭蕉庵。芭蕉碑の碑文は「我も死して碑に辺りせむ枯尾花」と蕪村の句が刻まれ、句で願った通り碑の傍らに葬られた。
 
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