Blue Signal
July 2009 vol.125 
特集
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出会いの旅
うたびとの歳時記
鉄道に生きる
美味礼讃
特集[句と絵の世界を行き来した芸術家の彷徨  蕪村の旅] 春の海 終日のたり のたりかな
夏河を 越すうれしさよ 手に草履
春風や 堤長うして 家遠し
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与謝野町を流れる野田川。背後に連なる山々は大江山連峰。与謝野町は蕪村の母の故郷で、そこを訪ねる道中に詠んだのが「夏河を越す…」の句といわれる。施薬寺近くを流れる野田川の支流、滝川だとする説もあるが、いずれにしても素足で川を渡る時の涼感を伝える蕪村の秀句。
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 蕪村の晩年、62歳の時の回想の手記『新花摘[しんはなつみ]』の中に、「むかし丹後宮津の見性寺[けんしょうじ]といへるに三とせあまりやどりゐにけり」という一文がある。39歳の蕪村は1754(宝暦4)年の晩春に宮津を訪れ、3年後の1757(宝暦7)年の晩秋まで丹後に滞在したという。その折、食客として寄寓したのが見性寺である。

 見性寺は知恩院の末寺で、寺町と呼ばれる宮津市街の西の一角にある。この見性寺の九世住職は俳句と絵画を嗜み、俳号を竹渓[ちっけい]と称した。蕪村と竹渓は同じ浄土宗の僧侶であり、知恩院で親交を深めた仲だ。口伝では、竹渓が蕪村の画才を見込んで丹後に招いたともいう。丹後には、天橋立や与謝の海、大江山や丹後半島のたおやかな自然と、古来からあまたの伝承が残り、蕪村の創作欲を刺激する句題や画題に事欠かなかった。初めて見る天橋立の風光の素晴らしさに息を呑み、きっと創作欲を駆られたはずだ。

 それにもまして、孤独の中で漂泊し続けてきた蕪村にとって、竹渓らの俳諧仲間との交遊が何よりもうれしかったのではないだろうか。京都を離れた理由に、関東の生活が長かった蕪村には都の堅苦しさは容易に馴染めなかったという説もある。比べて、丹後での暮らしは大らかで、のびやかであった。蕪村の創作の感性は、ここで奔放に解き放たれたのかもしれない。竹渓はそんな蕪村を支援したのである。わざわざ画室をあてがい、画材も用意したという。

 丹後では俳諧修行より、多くを画力の研鑽に費やし、風景、伝承、人物など数多くの画を描いた。現存しているだけでも丹後時代の作品は30数点。その一つが『三俳僧図』で、その後の俳画にいたる軽妙でおかしみのある画だ。見性寺の竹渓と、真照寺の住職で俳号が鷺十[ろじゅう]、それに両巴[りょうは]の俳号の無縁寺の住職の3人を特徴的に描き、それぞれに短い文を添えてある。書かれた方は「これはなんじゃい」と、都合の悪い部分を線香で焼き消したといい、画にはその時の穴が空いている。気の置けない仲の良さを伝える逸話の一つである。

 俳号は蕪村だが、この時期の落款には「四明[しめい]」「朝滄[ちょうそう]」「孟溟[もうそう]」「嚢道人蕪村[のうどうじんぶそん]」の画号を使い分けている。蕪村の画才は幼少より優れていたが、師をもたず独学である。さらに40歳になった蕪村は、身をたてるためにも、丹後ではこれまで以上に盛んに画の制作活動に励んだ。俳諧の収入では生計は成り立たない。漢画の『芥子園画伝[かいしえんがでん]』の和刻本を手本に、技法を研究し、図版を模倣し、軽妙な英一蝶の人物画や大津絵などの民画も、貪欲に吸収し自分のものとして取り込もうとした。その成果として『田楽茶屋図』や『静舞図』『四季耕作図』『十二神仙図』など多くを残すこととなった。

 宮津の見性寺を拠点に、蕪村は丹後の各地を訪ねた。遠くは丹後半島の先の伊根や経ケ岬にも足を運んだといわれる。そしてある日、与謝村へと向かった。その道中の折に詠んだといわれるのが、次の句である。


 夏河を 越すうれしさよ 手に草履


 蕪村らしい、清々しい情景が浮かぶ句だ。夏の盛りの炎天の日に、裾をからげて冷たい川に素足をつけた時の心地よさが伝わってくる。絵画的である上に蕪村の巧みさは肌の感触さえも感じさせる。そして、この「うれしさ」には、もう一つの気持ちの高揚が隠されている気がしてならない。それは母を思い慕う蕪村のこころ、「郷愁」ではないだろうか。
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宮津は古くから丹後の中心都市。豪商の屋敷が海運で栄えた往時を今に伝える。
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『三俳僧図』。宮津の俳諧仲間の3人の僧を描いている。左の僧侶が、知恩院以来の友で京都から蕪村を招いたといわれる見性寺の住職の竹渓。画面には所々に破れがみられるが、これは蕪村が3人を風刺した箇所を、僧侶達が線香で焼き消した跡といわれている。画面から伝わる滑稽味から仲の良さがうかがえる。(個人蔵/京都府立丹後郷土資料館寄託)
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丹後時代の蕪村は精力的にさまざまな画風に挑戦した。『田楽茶屋図屏風』もその一点で、この画には大津絵や風俗画家の英一蝶の影響が見られる。(個人蔵/京都府立丹後郷土資料館寄託)
夏河を 越すうれしさよ 手に草履
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『新花摘』1798(寛政10)年版行。晩年の蕪村が著した句、手記。前半は、亡き母を追善する発句から成り、後半は回想記。このなかで「むかし丹後宮津の見性寺といへるに三とせあまりやどりゐにけり」と記している。(個人蔵/京都府立丹後郷土資料館寄託)
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蕪村が身を寄せた見性寺は知恩院の末寺。山門は蕪村が逗留した当時のもの。
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見性寺の庭に建つ蕪村の句碑。蕪村研究者でもあった河東碧梧桐の筆で、「短か夜や六里の松に更けたらず」と刻まれている。
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