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春とはいえ吉野山に分け入ると、まだ山の冷気が身に沁みる。山道は寂漠として道行く人の姿もない。この道を800年以上前に西行も辿ったであろう。黒染めの衣に笈[おい]を背負い、人跡まれな残雪の吉野山を行く姿が「西行物語絵巻」に描かれている。西行は桜を訪ね、「花に心をかけて詠ぜんがため」に、山中に草庵を結び住んだ。
吉野山花の散りにし木の下に
とめし心はわれを待つらむ
吉野は桜の歌枕、そして桜といえば西行。とりわけ吉野の桜を愛しみ、吉野の桜を詠んだ歌は60首余もある。和歌における吉野の桜は西行の発見だといわれるほど、西行と吉野の結縁は強い。ただ、歌心は内省的で、咲く花の美しさを酔狂に賛美するのでなく、我が身の葛藤と複雑な心象を映している。
俗名は佐藤義清[のりきよ]。僧名を円位[えんい]、西行は西方浄土に因む法号である。藤原鎌足に連なる家系で奥州藤原家とは縁戚である。現在の和歌山県紀ノ川沿いの田仲庄の領主の家に生まれ、18歳で左兵衛尉[さひょうえのじょう]となり、鳥羽院の北面の武士として仕えた。鳥羽院の御所の北面を警護する役職だが、北面の武士は武勇はもちろんのこと、学芸に優れ、眉目秀麗であることがなによりも条件とされた。平清盛は北面の武士の同期であった。
ところが、官位も妻子も捨てて、23歳の年に突然出家する。理由は、親友の不意の死に無常を悟ったとか、皇位をめぐる政争への失望感、鳥羽天皇の中宮待賢門院[たいけんもんいん]との失恋が動機ではと種々の説があるが、西行は自分について何も書き残していないために、どれも推測の域を出ない。それゆえに謎めいているが、遁世して都の郊外に庵を結んだ後に向かったのが吉野である。吉野山は、奈良時代に役行者[えんのぎょうじゃ](役小角[えんのおづぬ])が開山した山岳信仰の霊場である。その役行者が蔵王権現の姿を桜の樹で彫り、本尊として以来、桜は吉野の神木となっている。
吉野の峰々は高くはないが、修験道場であるために谷は深く、険しい。尾根はのたうつ巨大な龍の背のようにはるか大峰山へと続いている。現在では尾根道は舗装され、狭い道路の両側に「吉野造り」と呼ばれる、懸崖にせりだして建てられた独特の家々が肩を寄せ合うように連なっている。尾根を登って行く順に、下の千本、中の千本、上の千本、さらにその先が奥の千本と呼ばれ、桜は山裾から順に開花していく。満開の頃は壮観で、一目千本と形容されるが、実際は10万本以上もあり、まるで雲と見まがうほどである。
仁王門、蔵王堂を過ぎ、宿坊の続く坂道をさらに登って行くと吉野水分[みまくり]神社、金峯[きんぷ]神社へと至る。人が訪れるのはふつうこの辺りまでで、西行庵は奥の千本からさらに奥へと進んでいった先の、沢からせり上がった急な斜面のわずかな平地にぽつりと建っている。三畳ほどの広さの粗末な寓居である。辺りは森閑として、聞こえるのは樹々の枝を過ぎる風の音と、野鳥の涼やかな声だけだ。西行は3年をこの庵で暮らし、山林流浪の行として、自然に身を晒し、経文を唱えるように歌を詠んだ。
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奥の千本付近より山岳修験道修行の場、大峰山系を見渡す。西行も修行を2度行った。 |
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金峯山寺の蔵王堂(国宝)。現在の伽藍は天正年間に再建したもので、木造建築では東大寺大仏殿に次ぐ巨大建築で見る者を圧倒する。 |
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吉野水分神社。主祭神は水を司る天之水分大神(あめのみくまりのおおかみ)。創建年代は不詳だが『続日本紀』の698(文武2)年に神社の記述がある。 |
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金峯神社からさらに30分ほど山道を登った、奥の千本の急な斜面のわずかな平地に西行庵はある。 |
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『紙本著色吉野曼荼羅』(室町時代)。吉野山の霊場が俯瞰で描かれてる。上部中央は、役行者が蔵王権現を感得したところ。(如意輪寺蔵) |
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『待賢門院璋子像』。幼時より白河上皇の寵愛を受けた。鳥羽天皇の皇后であり、崇徳天皇、後白河天皇の母。西行が高野山に籠ったのは待賢門院が死去したためだともいわれ、桜を詠んだ歌の中には待賢門院を詠ったものもある。(法金剛院蔵)
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