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米子空港から松江市へ車で向う途中の大根島あたりで、私は目をみはる風景に出くわした。それは、十二、三隻の船が半分ほど沈みかけたまま、たがいに手をつなぐようにロープで連結され、堤防の役割をこなしているけしきだった。それらの船たちは、かつて中海から松江市や米子、あるいは隠岐島あたりへも行き来していたが、中海の干拓で活躍の場を失っていった。本来の役を終えた船が、船となって沈みかけ、もとの姿を半分ほど晒して、大根島の人々に最後の奉仕をしている…そんな風情だった。

私が、『時代屋の女房 怪談篇』の取材で松江をおとずれたときだったから、今から二十年以上も前のことだった。私は、その作品の中にも船を登場させたが、いつかもっと濃い意味をこめて、大根島あたりの風景を描いてみようと思ったものだった。

それ以来、松江ファンのひとりとなった私は、何度も松江をおとずれた。そして、そのたびに大根島あたりにある船の姿を、目に灼きつけた。おとずれるたびに船の数が減ってゆき、昨年は四隻が残っているのみだった。本来の仕事を終えて堤防がわりとなり、さらに船体が朽ち果てて、ついにその役も果たせなくなっていったのだろう。私は、これを見てあせりを感じた。

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ちょうどその頃、私は吉祥寺、大根島、そしてソウルを主な舞台とする小説『時のものがたり』の構想をねっていた。大根島が出雲神話に深い縁をもち、薬用人参と牡丹の産地であったことを、何とか船のけしきにつなげてみようと思っていたから、船の姿が刻一刻と減ってゆくことが、何とも寂しく感じられたのだった。
 ぎりぎり残った船の水から上に出た部分に、何処かから飛んできた植物の胞子が芽をふいたのか、名も知らぬ草が風に吹かれてそよいでいる。船体の飾りの箇所は朽ちるのが早いが、機能の根幹を成す部分、とくに竜骨などは力強い輪郭を残している。船の上方が腐蝕のためくずれ、底の部分を上にして逆さになりかけた一隻の船があり、その竜骨の稜線が夕陽を浴びているありさまには、鬼気せまるものさえ感じさせられた。

昨年は、出雲大社における六十年に一度の大遷宮の年にあたり、御神体が本殿から権殿[かりどの]にうつされたあと、本殿の一般公開が多くの観光客を出雲大社に集めた。その中のひとりとなって本殿天井の八雲之図などを拝観してからのち、小説の構想がしだいにかたまっていった。

出雲大社の祭神は大国主命であり、因幡の素兎[しろうさぎ]を救ったものがたりは有名だ。だが、出雲神話をみれば、大国主命の運命は並大抵の過酷さの域を超える、艱難辛苦の連続であり、八十神[やそがみ]と呼ばれる兄たちに何度も殺されかけ、一度は焼き殺されたあげく蘇生している。ふだん気も向けぬその大国主命のものがたりが、出雲大社本殿の拝観によって、急に私に近づいた。

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出雲神話、大根島の牡丹栽培の歴史と船の風景、それに東京・吉祥寺の何でもない時計屋でアルバイトする若い女性、彼女を支える昭和の心根をもつ男たち、そして謎の母親…といったそれぞれのものがたりが、たがいに関わり合って作品の綾を成してくるまでの時のながれが、不思議なくらいスムーズだった。

このようにして、二十年以上もこだわりつづけた船のけしきが、ぎりぎりのところでようやくひとつの作品をもたらしてくれた。その作品が成功しているや否やは、もちろん私には分からない。だが、すでに四隻になってしまった船は、遠からず中海から姿を消してゆく運命にあるはずだ。私は、二十年以上もこの船たちを、擬人化してこだわりつづけたきた。それは、回らない扇風機、縫えないミシン、鳴らない蓄音機、写らない写真機などに哀愁をからめた、私の小説家としてのデビュー作である『時代屋の女房』を書いたときと、さして変らぬ心根なのだ。さまざまに思いをころがしたあげくの着地点は、つくづく進歩がないなという、自分の正味の寸法の見定めとなってしまったというわけである。

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