Blue Signal
March 2008 vol.117 
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特集[優雅に舞い立つ播磨国の白鷺への旅 姫路城 兵庫県姫路市] 姫山に築かれた秀吉の出世城
池田家52万石の居城、近世城郭の頂点
廃城の危機乗り越え、昭和に甦った不戦の城郭
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南西側から見る天守群。強固な石垣と白漆喰の櫓と塀のコントラストが大天守の優美な姿を際立たせる。
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 ふたたび時代は大きく動く。1598(慶長3)年に秀吉が死去し、1600(慶長5)年に豊臣方、徳川方が東西に分かれて関ヶ原において天下を賭けた戦をする。池田輝政はこのとき徳川方について戦い、その軍功で播磨国を所領し、その年の12月に三河国吉田から姫路に入封する。御年37歳、石高は52万石。姫山には秀吉の3層の姫路城がそびえていた。

 輝政が早々に行ったのは、三木、明石、赤穂、龍野などに支城を置き、播磨の外周の守りを固めることだった。その上で城郭と総構えの姫路城下町の建設にとりかかった。工事は1601(慶長6)年に着手し、完成したのは1609(慶長14)年。普請は8年の歳月を要し、延べ2,500万人が動員されたという。築城にあたっては、一部に秀吉時代の姫路城の石塁を活用しているものの、縄張りの構想も、城郭の構造や備えもスケールもまったく異なる。播磨国の総力をあげた壮大で壮麗な城づくり。そこに、徳川譜代ではない国持ち大名としての輝政の強い自負が見える。国主として諸国や領民に誇示する城でなければならなかったのだ。

 家康が輝政に課した任はいうまでもなく西国への牽制と、豊臣氏の大坂城への睨みだ。つまり防御の最前線でもある。しかし同時に、輝政の威信を具現化した城でもある。姫路城は近世城郭建築の典型である平山城だが、姫山に豪壮な本丸天守、鷺山に優美な姿の西の丸を配した構成は、剛と柔のバランスが巧みである。特徴である連立式天守閣は他にも例はあるが、姫路城のそれは大天守と小天守を一列でなく、立体的に組み合わせている。それによって見る角度で微妙に城の姿が変わるのだ。5層の大天守は上にいくに従って理想的な逓減率を保持する工夫がより均整のとれた美しいシルエットを生み、千鳥破風や唐破風、白漆喰の壁などと絶妙に調和して姫路城の快い造形美をつくりだす。それが白鷺を連想させる華麗さだろう。

 巧みな城郭の構成は縄張りにも見られる。姫路城は天守閣を中心に土塁や塀が左回りに配置され、内濠・中堀・外濠は螺線状にめぐらされて複雑である。螺線状の縄張りは姫路城と江戸城だけで、軍事的機能として厳重なもので、とりわけ内曲輪に入って天守閣にいたるまでの経路はまるで迷路のように複雑で、容易には辿り着けない。濠の総延長は11.5km、城下町は約230ha。総曲輪の門の数84門(現在21門)、侵入した敵を迎え撃つのに壁に開けられた狭間[さま]は3,125カ所(現在997カ所)と姫路城の大きさと軍事的な機能の充実ぶりに驚かされる。

 大天守の最上部に昇って四方を見渡してみると、姫山、鷺山という独立丘に建てられた姫路城の地の利を改めて実感できる。姫路平野を一望し、南には播磨灘が茫洋と広がり、三方を山に守られている。一説には陰陽道の「四神相応」の地、神々に守られた吉相の地だという。陸路・海路の要所である姫路は、守るにも攻めるにも恰好だ。巨大で堅固な姫路城の存在そのものが西国大名を威圧し、間違いなく脅威であったはずだ。家康の不安を少なからず取り払ったにちがいない。しかし、池田輝政は実は城の防御にはあまり意を払っていなかったふしがある。輝政は家中の者に「わしはこの城に立て籠もる気は毛頭ない」と語っていたという。あくまで威武の象徴だったのだろう。豪胆な人物だった輝政は城の完成からわずか4年後の1613(慶長18)年に死去する。
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三の丸から眺めた姫路城、内曲輪の全景。大天守がそびえる右(東)が姫山で、左(西)の鷺山に西の丸がある。
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菱の門。西の丸、さらに本丸に通じる表玄関。上の櫓には武者窓、花燈窓が設えてある。通路を挟んで左が番人部屋、右が馬見席と納屋があった。
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豊かに水をたたえた内濠と三の丸の石垣。城主の居館である本城があったほか、本多忠刻と千姫の下屋敷であった武蔵野御殿もこの三の丸にあった。
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西小天守の1階の白漆喰の壁。軒垂木にも漆喰が塗込められ、窓には雨水を抜く工夫が施されている。
鉄砲・矢狭間。実用性よりも装飾性が強く、「○△□」の窓が白壁に美的なアクセントをつけている。
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『播州姫路城図』(大絵図/元禄期)。内曲輪を細かく描いた本図は、御殿群をはじめ現存しない建物や内濠内の建物配置などがわかる貴重な史料。曲輪や濠、石垣の寸法、建具の位置や種類までも詳細に記されている。(大分市・中根忠之氏蔵)
池田家52万石の居城、近世城郭の頂点
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「は」の門へといたる石畳の坂道。奥に見えるのが大天守と西小天守。天守にいたる道は迷路のように複雑で狭く、大軍が容易に攻め上れないように計画され、通路の壁の随所に施された鉄砲・矢狭間から激しい攻撃に遭うことになる。
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大天守地階には台所や流し、雪隠(便所)など、籠城に備えての生活施設がある。
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大天守5階、姫路城の構造的特徴である東と西の2本の大柱が地階から6階床下まで貫いて大天守を支えている。
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大天守最上階は他階と異なり、座敷風の造作となっていて、姫山の地主神の刑部明神が祀られている。
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『姫路城内郭西東断面図』。この断面図からも地形を巧みに活かした、 バランスのとれた美しい城郭であることがわかる。(姫路市発行:姫路市史 第十四巻付図5)実測図製作 内藤晶(C)/トレース千秋社)
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