Blue Signal
March 2008 vol.117 
特集
駅の風景
出会いの旅
うたびとの歳時記
鉄道に生きる
探訪 鉄道遺産
Essay 出会いの旅
八名信夫
1935年岡山市生まれ。明治大学から東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)投手となる。試合中の怪我でプロ生活を断念、映画俳優に。悪役俳優50年。映画『居酒屋ゆうれい』、テレビ『純情きらり』『おシャシャのシャン』(2008)、舞台『エーおせんにキャラメル』『婆ちゃん』(作・演出 全国の芝居小屋を中心に15年間公演)、CM『キューサイ青汁』『総務省』(2008)『AC公共広告機構〜他人の子を叱ろう』など。《出会いふれあい人の味》と題した講演も「明るく元気を貰えた」と、全国で人気。
著書『こんにちは八名信夫です』『悪役になろうぜ』『くろい天使』。昨年岡山駅にAEDを寄贈。「空襲から父たちが守った岡山駅、お客様の生命を大切に」と。
 鉄道の旅、人生の旅
 昭和二十年六月二十九日未明。

「起きろ、起きろ!」「空襲ダ!」親父の声で飛び起きた。すでに窓の外は、真っ赤な火の海だ!B29の焼夷弾投下の不気味な音が、今も耳にこびりついている。

 当時岡山駅の助役だった親父は、「お前たちは、旭川の向こうへ逃げ!ワシは駅に行く」母と姉と俺を残して駅へ走った。あっちこっちに焼けただれて苦しんでいる人たちの中を母、姉、俺は手を握り合って無我夢中で走った。気がついた時には、俺は唯一人田圃の中で横たわっていた。まだ九歳だった。

 あれから六十三年、今や岡山駅は、旅や交通の拠点と成り栄え、中国地方の心臓部として活躍している。今の岡山駅を親父が見たら、何と言うだろう?

 先日《昭和二十年六月三十日の岡山駅》の写真を見せて貰った。焼け野原にポツンと、黒コゲの岡山駅が呆然と建っていた。パネルの写真に、俺は釘付けになってしまった。『幸いに空爆から逃れた貨物列車数台あり、駅員たちの必死の努力によって、すぐに人々と物資を運搬することが出来た』と書いてあった。

 俺は十歳頃迄駅前の鉄道官舎に住み、蒸気機関車の汽笛とレールの継目のガッタンゴットンを子守歌がわりに聞いて育った。十九の春、ふるさと岡山から初めて東京の大学へ向かった時の列車は、今でもはっきりと想い出せる。トンネルに入る度、窓を閉めススの入るのを防ぐ。

 不安と期待で胸が締め付けられるのをホッとさせてくれたのが、駅弁だった。たいした物は入っていない。梅干し、シャケ、昆布、いっさい麦メシ。競い合って弁当屋のおじさんを呼ぶ。箱の匂いがたまらなく、一粒も残さず食べた。出発の折り、岡山駅迄送ってくれた親父が俺に小さな紙袋を渡して言った。「二十歳になったら吸え」中にはキャメル、外国の煙草が二箱。ジンと来たな。横浜あたりで朝を迎え、十分ぐらいの停車時間の間にススだらけの顔を洗った。

 今では蒸気機関車も新幹線になり、300キロという信じられない速度で全国を走り抜ける。ただ、俺たち俳優の辛いのは宿泊費が出なくなった。日帰りさせられるのだ。

 鉄道の旅は、人生の旅。どこか似通っている。「今一番の楽しみは、家に帰って鉄道の旅の番組を観ること。癒されるって言うか、ホッとするんだよなあ」仲間の“働き蜂”の親父たちが飲むとそんな話をする。

 「行き止まり、終着駅をおばあさんが守っていて、子供や孫が来るのを楽しみに、毎日駅を掃除しているトカ」「無人駅に宿をつくって、若いお客さんたちを手作りの温泉風呂にいれてくれるお父さん」「みたみた!」「外国の列車も良いよなあ。景色も良いし、乗ってる人たちが楽しそうだよ。氷河や城が間近に眺められたり…」「年配の夫婦も子供たちもみんなが笑顔でサ!」鉄道の旅、人生の旅は楽しまなきゃあナ。

 子供の頃いつも一緒だった蒸気機関車を思い出す。真っ黒な煙を吐いて、なんだ坂こんな坂と沢山の人や貨物、世界に並ぶ日本経済文化の源を全力で引っ張ってくれた蒸気機関車。頑固で不器用かも知れないが、大切なことを厳しく教えてくれた。あたたかく俺たちを運んでくれた。

 俺たちは蒸気機関車の気持ちで、大事なことを子供や若い人たちに伝えて来ただろうか?便利で得なことだけが良いんじゃない。相手を思いやる気持ち。人を支え、人から学ぶことがどれだけ大切か。

 本当に強いやつは、思いやりの優しさを持っているんだ。ポーッ!とあの懐かしい汽笛のように伝えていきたい。
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