Blue Signal
January 2008 vol.116 
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特集[加賀百万石の城下町への旅 金沢 石川県金沢市] 寺内町から百万石の城下町へ
今も市中に残る藩政期の町割り
御細工所で培われた加賀の伝統芸術
前田家14代の居城と加賀の伝統文化ー城下町金沢
加賀、金沢。優雅な響きとともに脳裏に浮かぶのは、
金沢城の白亜の櫓だ。豪壮ではない、凛として清楚な佇まい。
加賀藩前田家14代、約300年つづいた城下町、金沢には
いまも、藩政時代の風情が町の随所に色濃く残っている。
武家屋敷、寺院群、商家、坂道と水路…、
迷路のような路地にも城下町の空気がひっそりと漂っている。
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本丸天守のあった跡地から五十間長屋、二ノ丸、三ノ丸を望む。金沢は3つの台地を持つ地形で、その一つである小立野台地の先端に金沢城は築かれた。 正面に望む高台が卯辰山。
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 兼六園の外れに「金城霊澤[きんじょうれいたく]」という金沢の地名発祥の泉がある。碑文には藤五郎なる男が山で採掘した金を泉の水で洗ったと記してある。また、金沢に伝わる「芋掘り藤五郎」の民話では、藤五郎という貧乏だが実直な若者が、掘った山芋の根を沢の水で洗うと底に砂金が積もっていた。その沢を「金洗いの沢」と呼ぶようになり、いつしか地名になったという。史伝では金の採掘を生業とする金屋衆の集落があったとされる。

 金沢といえば、加賀藩百万石、前田家14代の城下町の印象が強いが、金沢の発展は寺内町からはじまった。1488(長享2)年、加賀国の守護であった富樫氏を倒した加賀一向一揆の後、日本史上稀な門徒、農民による自治共和国を実現した。門徒衆が一揆の拠点として「金沢御堂[かなざわみどう](尾山御坊[おやまごぼう])」を築いた場所が金沢城の本丸跡付近で、金沢御堂を中心寺院として、建物や宿泊所などを設け、周辺地域を寺内町として整備した。金沢城内に架かる極楽橋は御堂時代の名残りである。

 金沢御堂を攻略したのは門徒衆を政敵とした織田軍だ。1580(天正8)年、柴田勝家と甥の佐久間盛政が一向一揆を掃討した。領主となった盛政によって金沢御堂は「金沢城」と改められ、小規模ながら城の体裁が整う。やがて信長の後継者争いが勃発し、勝家は賎ケ岳の戦いに敗れ、秀吉は金沢城を開城させた。秀吉から北加賀の領地を与えられた前田利家は、能登国七尾の城から1583(天正11)年に金沢城に移った。

 利家は大々的に城普請を行ったが、当時の城郭の姿はじつは不明なところが多い。戦禍に遭ってないが金沢城は火災で3度焼失し、本丸、二ノ丸、三ノ丸も全焼。その再建の度にようすが異なり、研究者の間では初期金沢城、前期金沢城、そして江戸後期の後期金沢城と3つに区分している。今日目にする金沢城は前期金沢城以降の姿で、初期の城郭の全容は今後の発掘調査を待たねばならない。しかし、石垣には各時代ごとの匠の技が随所に残っていて、金沢城は「石垣の博物館」とも呼ばれている。

 徳川幕府になってからの城の整備、拡張には慎重を要した。焼失した天守を以後再建しなかったのは、最大の外様大名であるがため幕府への謀反の嫌疑を逸らす対策だったという。その一方で、外観は三層櫓に見えて中は5階構造という知恵にぬかりはなく、天守に匹敵する櫓を備えた。百万石の石高に似合わず、外見に豪壮を誇らない城づくりを行ったのには、そんな藩主の苦悩と理由があった。だからこそ、金沢城は14代藩主の慶寧[よしやす]まで約300年間、徳川御三家に次ぐ大大名として前田家歴代の居城でありつづけたともいえる。

 歴代藩主のなかでも3代利常、5代綱紀は名君の誉れが高い。藩の基礎をつくった藩祖利家、行政改革を進め、城下を整備した利常、そして金沢の文化を成業させた綱紀。加賀藩の教育水準を高め、絢爛な金沢文化を完成させた文治の名君だ。藩政は時に民衆に厳格だったが、江戸、京都、大坂に次ぐ大都市に築き上げ、今日にまで継承される伝統文化の礎を育てた。金沢は藩政時代の町の姿を今も色濃く残し、他に比べようのない独自の空気を醸している。
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菱櫓、五十間長屋、橋爪門。2001(平成13)年に再建。明治以降に建てられた木造城郭建築物としては全国最大規模。その名の通り、100度、80度の内角を持つ菱形で、物見櫓として視野を広くするためとの説がある。鉛瓦、海鼠壁が特徴で金沢城のシンボル。
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兼六園の外れにある「金城霊澤」。この泉の水で砂金を洗ったのが金沢の地名の起こりといわる。
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三十間長屋に通じる「極楽橋」は、門徒衆の拠点であった「金沢御堂」の名残り。御堂があった頃は極楽に通じる橋とされた。
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加賀藩藩祖前田利家と正室のまつ。1581(天正9)年に信長から能登国を与えられ、その後、加賀、越中に領地を広げ、約80万石の大大名となった。まつはその土台づくりを支えつづけた賢夫人。(金沢市 桃雲寺蔵)
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『加賀国金沢之絵図』(369cm×350cm)。幕府に提出するために作成された城絵図で江戸前期の金沢城の全容を色鮮やかに描いている。(金沢市立玉川図書館蔵)
寺内町から百万石の城下町へ
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石川門。1788(天明8)年に再建された門は国の重要文化財。現在は金沢城の正門のように思われているが搦手(からめて:裏口)門。
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金沢城の石垣は多種多様で、場所により築き方や様式を使い分けている。上段は最古の東ノ丸北面の石垣、中段は本丸への入口となる鉄[くろがね]門の石垣、下段は刻印のある数寄屋敷の石垣。
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五十間長屋。瓦は木を心材に鉛板を貼り付けたもので、日に照らされると白く輝く。屋根の軽量化、有事の場合の鉄砲玉とするなどの説がある。
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五十間長屋の内部。建物は2層2階構造で、柱や梁など細部におよんで創建当時の姿を忠実に再現している。
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