Blue Signal
January 2008 vol.116 
特集
駅の風景
出会いの旅
うたびとの歳時記
鉄道に生きる
探訪 鉄道遺産
Essay 出会いの旅
谷川  渥
1948年生まれ。東京大学大学院博士課程修了。美学専攻。國學院大学教授。著書に『形象と時間』(講談社学術文庫)、『美学の逆説』(ちくま学芸文庫)、『鏡と皮膚』(ちくま学芸文庫)、『図説だまし絵』(河出書房新社)、『廃墟の美学』(集英社新書)、『芸術をめぐる言葉』(美術出版社)、『美のバロキスム』(武蔵野美術大学出版局)他多数。美と芸術に関する新たな理論的組み換えを求めて精力的に活動。
 日本の「根」を求めて
 勤務先の大学から1年の研究休暇、いわゆるサバティカルを貰って、私は昨2006年度ローマに滞在した。3月末に出かけたのだが、諸般の事情で、じつは夏に一時帰国した。用事を済ませ、準備を整えたら、またすぐに戻らなければならないのだが、そのとき私はどうしても奈良を歩きたいという思いに駆られていた。

 「世界の都」ローマのどまんなかで古代の廃墟とおびただしいキリスト教会に取り囲まれて、私はひたすら日本の古都を思った。それも京都というよりは奈良をである。

 学生時代から京都が好きで何度通ったか知れない。いまではちょっとしたアジトを設けて、年に少なくとも数回は東京と京都を往復する。新幹線が東京駅から静かに発車するとき、私は心の底からほっこりする。

 ローマに匹敵する古都があるとすれば、やはり京都に指を屈するのが普通だろう。だが私は大好きな京都よりもさらに古い、日本の「根」をあらためて自分の眼で見てみたいと思ったのである。
 典型的な日本回帰というべきかもしれない。彫刻家の荻原守衛は、7年にわたるヨーロッパ遊学から1908年に帰国するとすぐに奈良の古代彫刻を見てまわった。荻原のようにはロダンに師事することはなかったけれども、高村光太郎も、わが国における彫刻の古典性を求めて、1910年に奈良の寺社を巡り歩いた。彼らは、ロダンにとっての《ベルヴェデールのトルソ》に相当する、おのが彫刻のまさしく「根」を確認しようとしたのである。

 私の頭にあったのは、これら二人の彫刻家ばかりではない。もうひとり、そしてとりわけ、1919年に『古寺巡礼』を公刊した和辻哲郎のことがあった。私はローマで彼の『イタリア古寺巡礼』を私自身の直接的経験と照らし合わせながら読んでいた。これは和辻が1927年に執筆し、1950年に刊行された書物だから、『古寺巡礼』よりもあとのものである。それゆえ和辻と順序は逆になるが、イタリアから奈良へ私は眼差しを向け直してみたかったのである。

 1泊2日という文字どおり駆け足の旅ではあるが、そうして私は数年振りに奈良を訪れた。ちなみに、先回は奈良市郊外の帯解にある円照寺を尋ねた。三島由紀夫の遺作『豊饒の海』第四巻『天人五衰』のラストシーンに登場する月修寺のモデルとされている門跡寺院である。山門までの長いなだらかな坂道を歩きながら、私は三島の情景描写の精確さに舌を巻いたものだった。
 今度はなによりも奈良の名刹、法隆寺、薬師寺、唐招提寺といったところを見たかった。そしてもちろん中宮寺のあの観音像、弥勒菩薩半跏思惟像も。和辻が『古寺巡礼』のクライマックスで「なつかしいわが聖女」と呼んだ観音像は、私の遥か昔の記憶とは違って、新しい瀟洒な建物のなかでかなりの距離を置いて眺めるほかはなかったが。

 いろいろな思いが去来したが、しかしじつのところ私がいちばん印象を受けたのは、唐招提寺から平城宮跡へ徒歩で向かう途上、不意に左手に姿を見せた垂仁天皇菅原伏見東陵だった。人っ子ひとりいないせいもあるだろうが、そのぞっとするような存在感に、私は古代の権力のありようを直感したように思った。これは京都では決して感じられないものである。

 JR奈良駅へ来てみると、《サモトラケのニケ》像が消えていた。どういうきっかけで置かれるようになったのか私は詳らかにしないが、いずれにせよどこかへ移されたらしい。

 こうして私は日本の「根」を、ともかくも満足してあとにし、そして再び「世界の都」へ戻ったのだった。

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