Blue Signal
September 2006 vol.108 
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特集[水とともに暮らす川端[かばた]のある風景] 豊かな自然がつくる最初の一滴
生命を育む川端[かばた]の生水[しょうず]
川と暮らし、琵琶湖とともに生きる老漁師
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田中三五郎さん宅の「川端」。丸々と肥えた鯉が、三五郎さんの足音を聞くだけで餌をねだる。三五郎さんの一日は鯉に挨拶し、コップ一杯の生水から始まる。昔も今も変わらない生活のリズムだ。
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針江に暮らす漁師の田中三五郎さん(85歳)の朝は早い。早朝4時、目覚めると川端の生水でざぶざぶと顔を洗い、鯉池で泳ぎ跳ねる錦や黒の数十匹の鯉に「おはよう」と挨拶して、餌をやる。鯉は三五郎さんの気配を察し、すでに水路から川端の中に群れていて、競い合うように三五郎さんにすり寄ってくる。「もう30年のつきあいやさかいな。みんな同じ顔に見えてもワシにはよう分かるねん」。そしてコップ一杯の生水を飲み干す。「この一杯が元気のもとや」。

その後、自転車に跨がり、のんびり15分ほど田んぼの間の道を走らせて、三五郎さん専用の船着き場に着く。針江大川が琵琶湖に注ぐこの辺りの景観は、鬱蒼と繁る葦や水生植物に囲まれた水路だ。すぐそばを湖周道路が走り、住宅地が隣接しているとは信じられない自然の聖域だ。水鳥たちは待ちかねていたかのように、三五郎さんを凝視している。水面を無数のミズスマシが軽やかに滑り、群れをなしてトンボや蝶々が飛び交い、昆虫や野鳥たちの鳴き声が辺りに響く。

60年以上もこの針江大川で三五郎さんは魚を捕っている。木造の田舟という底が平らな小舟を昔ながらの長い竹の棒だけで操る。「ワシの漁はもんどり一本や」。もんどり漁は、直径が30cm、長さが50cmほどの円筒状の網籠で、ポイントになる葦原の根元の水の中に一日沈めておくという琵琶湖の伝統的な漁法だ。「この漁は人間と魚の知恵くらべやな。魚の動きがよう分かってないと、なんぼ仕掛けても捕れへん。その代わり、魚が通りそうな場所を見極めてもんどりを仕掛けたら、餌がのうても魚はなんぼでも網に入りよる。そやな、網籠の入り口を陸側に向けて沈めるのが基本やな、あとはここ」と、三五郎さんはいたずらっぽく頭の横をとんとんと叩く仕草をした。捕るのは琵琶湖のみに生息する鮒寿し用のニゴロブナやゲンゴロウブナ、ギンブナに鯉など。網籠を70カ所ほどに仕掛け、翌朝引き上げる。多いときには網籠が魚でいっぱいになるそうだが、「だんだん魚は少のうなった。ニゴロブナなんかもうあんまり捕れへんで」と、琵琶湖の環境変化を嘆く。

川と漁を通じて琵琶湖を誰よりもよく知る三五郎さんは、「湖岸のどこにでもあった葦原が、開発で根こそぎ引き抜かれた時もあったさかいな」と話す。網籠を揚げて船着き場に戻ると、周囲で鳥たちが待ちかまえている。いつも不要な小魚やナマズ、ブラックバスを貰えるのをよく知っているのだ。昔のままの自然が残るこの水辺の環境も、三五郎さん自身が魚が棲みやすいように、繁殖し過ぎた川藻や水草を除去して保っている景観だ。しかし本人は淡々と、いつも自然体である。「魚がぎょうさん戻ってほしいねん、放っといたらあかんからやってんねん。なんせ趣味で漁してんのんとちゃうからね」。荷台に捕れた魚を積んで自転車で来た道を戻る。ずっと同じ時間が流れ、同じリズムで暮らしている。

家に着くと、川端をのぞいてまた鯉と遊ぶ。そして昼寝をする。急ぐこともなく、ただ自然のままに。しかし昼寝の前に一言、「若いもんは、気持ち悪いゆうて、川端の生水を飲まんと水道水を飲んどる。もっとうまい水がそこにあるのにな。人間、なんや大事なことを徐々に忘れていくような気がするわ」と話してくれた。

そうかもしれない。時代の変化といえばそれまでだが、比良山系と琵琶湖をつなぐ水の循環と自然景観、そして生水や葦原が残されたことの大切さは、誰もが理解できるのではないだろうか。「昔は陸の孤島で高度成長のときは開発に乗り遅れた。おかげでこの自然が残ったようなものです」という生水の郷委員会の石津さんの話を聞いて、それが幸いだったと素直にうなずいた。針江に見られる水辺の暮らしは、山紫水明の国、日本の原風景ともいうべき風景である。
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水を満々と湛えた川端で泳ぐ鯉。中央の丸い井戸が元池で、途切れることなく水が湧きつづける。
川端は外の小さな水路とつながり、やがて川となって琵琶湖へと注ぐ。
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三五郎さんの漁場(写真上)と船着き場(写真下)。大正時代に造られたという田舟を今も手入れをしながら大切に使っている。舟は水と接触している方が傷まないそうだ。使用しない冬期は舟全体を水中に沈めることもあるという。田舟の横にあるのは鳥たちの餌箱。
川と暮らし、琵琶湖とともに生きる老漁師
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捕ったニゴロブナで琵琶湖名物の「鮒寿し」を漬けて保存する場所であり、鯉をさばいたり小魚を煮たりと「川端」には台所の役割もある。
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三五郎さんが持っているのが「もんどり」という筒状の網籠。これを川底に仕掛ける。入り口の方は小さくすぼみ、片方は閉じてあり、一度この網籠に入った魚は逃げることができない。
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