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錦繍の山里にお囃子が響く。ドンドドン、ピーヒャラ、ドン…小躍りしたくなる太鼓や笛、鉦の音が、晩秋の風にのってのどかな田園地帯に響く。
広島駅から芸備線で約1時間30分。安芸高田市美土里[みどり]町は、中国山地の懐にある神楽の里だ。収穫を終えた秋晴れの一日、近郷近在の集落から大勢の人が神楽見物に集まった。こども神楽の発表会の日で、神面や鬼面をつけた豪華な装束の舞手が、お囃子に合わせて得意な演目を次々に披露する。「八岐大蛇[やまたおのおろち]」に「大江山」、「紅葉狩」…。
桟敷は見物客で満席だ。一演目は40分にわたり、物語が佳境に達すると拍手、声援、喝采、そして笑いの渦が巻き起こる。弁当を食べながら、酒を飲みながら観る人、評論家よろしく解説を始める人、舞手を真似て場所も構わずに踊り始める子ども…みんな陽気で無邪気で屈託がない。舞手もお囃子も、老いも若きも男も女も、子どもまでが一体となって心底、神楽を楽しんでいる。「神人和楽[しんじんわらく]」とは、神も人も一緒になってわいわい和やかに楽しむという神楽の真髄だが、目の前の光景はまさに神人和楽の世界が繰り広げられていた。
今日、日本各地に伝承されている芸能は1万件を超すといわれるが、その中で最も古い歴史を持つのが神楽だ。起源は、6世紀に書かれた『古事記』の「天の岩屋戸」のくだりの一節とされている。天岩屋に姿を隠した天照大神を呼び戻すのに、天鈿女命[あめのうずめのみこと]が頭や顔に木のツルや葉っぱを巻きつけて岩屋の前で即興で踊り、祈祷した。踊りを見ていた高天ケ原の男神は手拍子で囃し、大いに愉快に笑った。この騒ぎに、大神は「何事か」と岩屋から姿を現し地上界に再び光が戻った…。これが日本の芸能に関する最古の記録であり、神楽の基とされている。能や歌舞伎もルーツを辿れば神楽に行き着くといわれる。
実際は、神楽の起源については明らかではなく、『古事記』にも神楽という名の記載はない。神楽という文字が初めて使われるのは、9世紀の『古語拾遺[こごしゅうい]』の中の「女[さるめ]君氏、供神楽事」の記述。そして石清水八幡宮の「初卯[はつう]の神楽」や賀茂臨時祭の「還立[かえりだち]の御神楽」などに神楽の文字が散見することから、神楽は平安時代に誕生したと考えるのが通説のようであり、その語源を民俗学者・折口信夫は「神座[かむくら]」の音韻が「かぐら」に転化したものだと説いている。
神座とは神を呼び寄せる神聖な場所。そもそもは宮中の神事として神楽が執り行われた。「御神楽」とも「宮神楽」ともいう。それから派生し、民間に広まったものが「里神楽」。日本各地の風土や文化を背景に土地土地に伝承され、農耕信仰に根ざし、里に暮らす人々の生活と親密に深く関わりあっている。里人の神とは太陽や大地、風、雨、一木一草にいたる自然界に宿る八百万の神であり、春に豊作を祈願し、秋の収穫に感謝を捧げる。神楽は自然に対する畏敬の念、無病息災、安寧を祈る里人の無垢な心の表れである。
神々を慰めもてなす奉納として、里神楽では演歌、囃子、舞い、芝居などの芸能が供されるが、里神楽の形態は一様でない。「巫女神楽」「伊勢流神楽」、「獅子神楽」「出雲流神楽」に大別され、全国各地に広く分布しているのは、出雲の佐陀[さだ]神社が起源といわれる出雲流神楽である。
そして里神楽が最も盛んな地域が中国地方、とりわけ広島県・芸北地方には数多くの神楽団があって神楽を競い合っている。なかには伝統を守るだけでなく、舞台芸術として新しい神楽に取り組んでいる神楽団もある。 |
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春日大社
『春日若宮おん祭の社伝神楽』
巫女神楽を代表するもので、その起源は平安時代初期の延喜年間(901〜922年)にまで遡ることができる。8人の巫女による八乙女舞(やおとめまい)を基本とし、春日大社の祭典のなかでも最も大儀で華やいだものである。装束も春日大社の中で最も格式があるものが用いられる。 |
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隠岐島
『蓮華会舞[れんげえまい]ー獅子之舞』
平安時代から伝わるといわれる蓮華会舞は、インドや中国の大陸文化の流れをくむ伎楽・舞楽の趣が濃く、宮廷舞楽に属する舞。
7つの舞の中のひとつ「獅子之舞」は、角が1本で耳が立っているのが特徴で、古代の渡来芸能である伎楽の名残をとどめる。 |
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出雲佐陀神能
出雲佐陀神楽(神能)は出雲地方のみならず、備中神楽や荒神神楽、そして全国の神楽にも影響を及ぼしたと言われる。 |
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石見神楽『八岐大蛇』
出雲流神楽の流れをくむ石見神楽は、七座と神能が出雲神楽ほど整然と分かれておらず、大部分が演劇風の神楽。 |
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比婆山(広島県庄原市)の麓には里神楽の原形とされる『比婆荒神神楽』が伝え残されている。里神楽のあり様は、日本の古き良き農村の風景の伝承でもある。 |
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