Blue Signal
November 2005 vol.103 
特集
駅の風景
うたびとの歳時記
大阪駅進化論
天守閣探訪
大阪駅進化論 梅田ステンショから大阪駅へ---巨大ターミナルへの変遷(3)
西日本最大の駅として幾多の
人や物の流れを見届けてきた大阪駅。
今回は、大阪〜京都間の
鉄道建設の歴史を振り返る。
京・阪・神を1本に結ぶ大事業
1874(明治7)年に開通した大阪〜神戸間の鉄道建設により、関西の人や物の流れは大きく変化し、関西経済の成長にも多大な貢献をすることになる。

大阪〜京都間の開通にも大きな期待が寄せられていたが、政府の財政難により着工が遅れ、大阪〜神戸間の開通時に、ようやく工事が始まったばかりだった。この当時の日本は、新橋〜横浜間、大阪〜神戸間の鉄道建設に莫大な資金を費やし、また佐賀の乱や西南戦争などいくつかの事変が続いたため、財政的に窮地に陥っていた。

そこで、鉄道建設を最も望んでいた京都府が“政府に財政がないなら民間の資力を”と財界に要請して西京鉄道会社を設立。しかし当初のもくろみを遥かに超える建設費や、景気悪化による資金調達難により会社は解散し、結局は政府によって工事が進められることになった。一度決定した鉄道敷設工事を軽々しく中止にはできない、というのが政府の見解だった。
地図
大阪〜京都間の路線図/1876(明治9)年〜1877(明治10)年
(『日本国有鉄道史』第2巻をもとに作成)
大河川を回避しながら新しい幹線を建設
鉄道が敷かれるまでの大阪〜京都間は、守口宿、枚方宿、伏見宿を通る京街道がメインルートで、宿場町も大変な賑わいをみせていた。しかし、鉄道敷設ルートとして選ばれたのは、淀川、木津川、宇治川などの大河川を渡ることを回避するため、吹田、茨木を通り高槻街道、西国街道沿いを通るものだった。工事の難易度を下げることと、経費削減のねらいがあったようだ。

こうして、1876(明治9)年7月に大阪〜向日町間が開業、9月に向日町〜大宮通間、1877(明治10)年2月に大宮通〜京都間が開業し、神戸〜京都間が1本の線路でつながった。神戸〜京都間全通に伴うダイヤ改正により、この区間に直通列車が走り、神戸〜大阪間を1時間8分、大阪〜京都間を1時間43分で結んだ。1日あたりの運行本数は大阪〜神戸間が11往復、大阪〜京都間が10往復であった。旅客運賃は、大阪〜京都間が上等で1円35銭、中等で81銭、下等で41銭であった。5銭あれば米が一升買える時代だったことから、いずれにしても誰もが気軽に利用できる乗り物ではなかった。
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明治時代中頃の吹田駅付近
(写真提供/高山禮蔵)
首都圏と京阪神を結ぶ
大阪〜京都間の開業後、1880(明治13)年には大津まで延伸したものの、以後の幹線建設は財政難によりストップしたままだった。ところが西南戦争の際に鉄道が軍事輸送に大きく貢献したことから、それまで鉄道建設に反対していた軍部が建設推進派に転身し、東京〜大阪間を結ぶ鉄道路線の建設が具体化する。

そして1889(明治22)年7月、ついに東海道線の全通を迎え、新橋〜神戸間に1往復の長距離列車が運行されて約20時間で結ばれた。東京〜京都〜大阪〜神戸間が1日で結ばれるという画期的なできごとは、従来の旅や貨物輸送の常識をうち破った。

こうしたなか、大阪駅は関西の玄関口として大きな役割を担うようになり、また度重なる運賃値下げと相まって、開業時には1,000人足らずだった1日の平均乗車人員が、17年後の1891(明治24)年には3,000人を突破するまでになった。そして、5年後の1896(明治29)年には大阪駅の設備を拡張するため、2代目大阪駅の建設工事が始まった。
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明治時代中頃の茨木駅付近
(写真提供/高山禮蔵)
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明治時代中頃の向日町駅
(写真提供/高山禮蔵)
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