城下の風景を歩く

大和郡山 奈良県大和郡山市

国のまほろば 大和の拠点として築かれた要城

古都奈良の北西、郡山城跡を抱える大和郡山市。
奈良盆地を睨む絶好の地に築かれた城は畿内の要として君臨し、城下は今も往時の面影を残す。
日本の夏を彩る金魚の産地としても名高く、「金魚が泳ぐ城下町」のルーツを辿れば柳澤十五万石の藩政時代が鮮やかに蘇る。

郡山城には、関西本線(大和路線)の郡山駅から徒歩約15分。

西ノ京丘陵の南端に築かれた平山城。本丸を中心に内堀、中堀、外堀の三重の堀に囲まれた総構えの構造を持つ。高さ約8.5mの天守台の石垣をはじめ、昭和に復元された追手門や追手向櫓、東隅櫓の姿に当時の壮大さが偲ばれる。別名「犬伏の城」。

郡山城

栄華の名残を伝える城跡の石垣遺構

 大和平野を望む丘陵・郡山は、大坂や京に近く、古くから軍事や政治の要衝であった。畿内の要地に城を築いたのは、戦国武将 筒井順慶と伝わる。1580(天正8)年、織田信長から大和一国を与えられ、西は富雄川、東は佐保川に挟まれた流域に城郭の基礎を構築した。豊臣氏の時代には秀吉の弟 秀長が大和・紀伊・和泉百万石を与えられて入城し、近世城郭としての整備を進める。秀長は、紀州根来寺[ねごろじ]の山門を運んで城門とし、寺院の礎石、石塔、墓石などを強制的に取り立て、石垣に積み上げた。天守台を支える石垣には、逆さに組まれた石地蔵が埋め込まれ、野面積[のづらづ]みのすき間を埋める間石に400年前の痕跡が残る。その後、増田長盛により、周囲が50丁13間(約5.5km)の外堀が完成。郡山城の外観がほぼ整ったとされる。

 城の表玄関、柳御門跡の石垣に迎えられ、かつての城内へ進めば、下見板張りの追手向櫓が姿を現し、追手門が百万石の居城の雄姿を伝える。いずれも1983(昭和58)年〜1987(昭和62)年にかけて復元されたものだ。標高81mの天守台からは、城下の町並みをはじめ、東に平城京跡や南都の諸寺、西に矢田丘陵から二上山、金剛葛城山系に至る眺望に恵まれる。これまで、天守に関する史料はほとんどなかったが、天守台石垣の修復工事に先立ち実施された2014(平成26)年の発掘調査で、礎石列や金箔瓦などが出土。“幻の天守”の存在が明らかになった。

箱本十三町の町割に往時を偲ぶ

柳御門跡にほど近く、内町十三町の1軒目に位置する「本家 菊屋」。現在の建物は、1854(嘉永7)年の大地震で倒壊した後、翌年に再建されたもの。創業以来使われてきた菓子の彫り型が天井を飾る。

粒餡を餅で包んで青大豆のきな粉をまぶした伝統銘菓「御城之口餅」。秀長が秀吉をもてなすための茶会の際、「本家 菊屋」に献上させたと伝わる。

 城下町を歩けば、間口が狭く奥行きの深い商家に出合う。秀長は、城下の商工業育成にも手腕を振るい、奈良や堺から商人を移住させて郡山以外での商売を禁じた。地子免除の特権を与え、同業者を一区画に集める町割が成立。茶町[ちゃまち]、雑穀町[ざこくまち]、材木町、紺屋町[こんやまち]などの町名はその名残だ。これら「内町十三町」は「箱本[はこもと]」という独自の自治組織を持ち、当番制で城下の治安や防火、伝馬などにあたったという。町人街の入り口にあたる柳1丁目の角には、創業400余年の菓子司「本家 菊屋」があり、秀長ゆかりの銘菓を今に伝える。

 城下には、金魚養殖の歴史が受け継がれ、全国有数の生産を誇る。郡山の金魚は、1724(享保9)年、柳澤吉里[よしさと]が甲府から国替えされた際、家臣が観賞用に持参したのが始まりという。以来、金魚の飼育は下級武士にも広まり、幕末から明治にかけては最後の藩主柳澤保申[やすのぶ]が藩士の副業、さらには授産対策として奨励。養殖に適した気候風土のもと、明治以降も発展を続け、大和郡山の名産品といわれるまでになった。夏の風物詩、「全国金魚すくい選手権大会」には、達人たちが「金魚が泳ぐ城下町」に集う。

農耕用の溜池が多く、エサのアカコが豊富なことから一大産地に。現在は、約30戸の生産農家が金魚すくい用の和金を中心に、ダルマ琉金やハーフムーンオランダなど、海外の品種育成にも取り組む。(郡山金魚資料館)

全国に出荷されるやまと錦魚園の金魚すくい用の和金。涼しげな姿はインテリアとしても親しまれる。

ページトップへ戻る
ローカルナビゲーションをとばしてフッターへ