五穀豊穣と天下泰平を祈願する鷲原八幡宮の「流鏑馬神事」。馬場は鎌倉の鶴岡八幡宮を模したものだが、日本古来の原型を残しているのは日本でも唯一という。鎌倉時代の武士の装束をつけた小笠原流の古式で、疾走する馬上から矢を的に射る勇壮なものだ。

特集 石見 津和野

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古式のままに伝わる鷺舞、流鏑馬

 津和野生まれの画家・安野光雅さんは、『津和野』という画文集に故郷の山河草木を慈しむようなまなざしで描いている。津和野の四季は、何世代もつないできた暮らしに根ざした伝統の行事とともに移ろう。しかも古式のまま今に伝わっている。

 養老館の先に津和野大橋がある。橋のたもとを川沿いに行くと弥栄神社の境内だ。津和野の人々が大切に守り続けている国の重要無形民俗文化財の「鷺舞」は、弥栄神社の例大祭で行われる神事舞。京都祇園会の姿を今に伝える貴重な日本の伝統芸能で、毎年7月20日の渡御、還御の27日に披露される。

 雄と雌の二羽の白鷺に扮した舞い手が、町内を巡行する神輿に付き従って、町の辻々で「か〜わ ささ〜ぎ〜の」と唄と囃子に合わせて優雅に舞う。「約400年前に京都から山口の大内氏を経て津和野に伝わりました。病疫鎮護と夫婦和合を祈願する舞です」と話すのは津和野鷺舞保存会会長の吉永康男さん。先代は今日のような「鯉の町」に尽力した人だという。坂崎氏時代に鷺舞は一時途絶えたが、「亀井氏の時代になって復活させて、その後はずっと弥栄神社の氏子で代々受け継いでいます」と事務局の栗栖志匡さんは話す。

津和野大橋の傍にある鷺舞のブロンズ像。鷺舞は津和野の伝統芸能で町のシンボルでもある。

津和野鷺舞神事
殿町通りを巡行する鷺舞神事の一行。写真右上は、囃子と唄に合わせて雄と雌の二羽の白鷺が仲睦まじく優雅に舞う。

津和野鷺舞保存会のメンバー。左から会長の吉永康男さん、中央が鷺頭の井野村光雄さん、右が事務局の栗栖志匡さん。

毎年4月に催される流鏑馬の日は、さながら鎌倉時代を彷彿とさせる。八幡宮の氏子らが守り続ける神事には全国から大勢の人が見物にやって来る。

全長250メートルの馬場に立つ、津和野流鏑馬保存会の会長の吉岡茂太郎さん。右が副会長の米澤宕文さん。

 神事は弥栄神社の総代15人が毎年持ち回りで諸事一切を世話する頭屋を務め、舞方、囃子方、唄方の総勢35人で執り行う。だが、時代とともに受け継ぐ人が少なくなった。鷺頭の井野村光雄さんは「父親も鷺頭でした。でも、後継者難で今は知人などに参加してもらって伝統をつないでいます」。「伝統は一度絶えると復活は難しい」と、会長の吉永さんは神事として古式のままに鷺舞を守り続ける意義を説いた。そして、「観光のための鷺舞ではない」ことを強調した。これが津和野の気風と流儀だ。

 弥栄神社からさらに津和野城跡を仰ぎ、川沿いの道を行くと鷲原という地区に至る。日本の原風景のような山里だ。ここに津和野城の鎮守社「鷲原八幡宮」があり、毎年4月に披露される「流鏑馬[やぶさめ]神事」も鎌倉時代からの古式に則って行われる。

 津和野流鏑馬保存会会長の吉岡茂太郎さんが示した先は、一見、広場のようだが、「現存する最古の流鏑馬の馬場です。全長は250メートル」。副会長の米澤宕文さんは「学術的にも貴重な神事で、1万人以上の見物客が全国から来られます。外国の方も来ます。でも、杭打ちや幕張などの準備は会員一同、毎年手弁当で頑張っています」。そして自費で参加の小笠原流の方々など、大勢のあつい思いで守り続けられている。流鏑馬は城下町、津和野の歴史をつなぐ伝統であり、また人々の誇りである。

 こうして伝統が守られる一方で、津和野の魅力を再発見する取り組みがある。首都圏の大学生を「町長付」で受け入れ、地元の人が気づいていない津和野の良さや魅力を若い目線と感性で再発見し、町づくりに生かそうというプロジェクトだ。津和野に期間限定で移住した彼らは、津和野のどんな魅力を見つけ出すのか。ゆっくりと豊かな時間が流れる美しい津和野盆地に、新しい風が吹き始めている。

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