ふるさとの味

山口県下関市 おばいけ

海上交易が盛んになった江戸時代から 鯨の集積・流通基地の歴史を誇る下関。 近代捕鯨発祥の地としても知られ、水揚げ、加工品生産、 捕鯨船の建造に至るまで、あらゆる関連産業を担ってきた。 鯨との関わりは、食文化にも顕著に見いだすことができる。 地域に伝わる節分の行事食「おばいけ」に 郷土料理に息づく鯨食文化を訪ねた。

”鯨のまち“ならではの厄払いの行事食

地域に根付く鯨との歴史

 山口県は本州の最西端に位置し、北は日本海、西は響灘、南は周防灘と、三方を海に囲まれている。豊かな水産資源の中でも鯨との関わりは深く、日本海に面した山陰側の北浦地域は、長州捕鯨と呼ばれた古式捕鯨の拠点であった。江戸時代、長州藩は有力な財源として捕鯨を奨励。鯨の税金によって藩財政の強化を図り、その莫大な資金は倒幕運動を支えたといわれる。北前船の寄港地であった下関には、北浦沖で捕れた鯨の肉や油などが運ばれ、近代捕鯨が始まる明治以降は、加工や販売を担う商都として発展した。

 

 捕獲された鯨は、当時から一頭を余すことなく利用されてきた。食用としては「赤身」はもちろん、「白手物[しろてもの]」と呼ばれる皮や尾、うねの部分もさまざまな料理で食される。1832(天保3)年に出された鯨料理の専門書『鯨肉調味方』には、70種類もの鯨の部位についての説明と食べ方の記述が残っている。また、皮を煮て浮いてくる油は灯り取りや害虫駆除に、骨は肥料にするなど、その利用価値は幅広い。戦後の食糧難には、優れたたんぱく源として日本人の食生活を支え、学校給食の献立にも上るほどであった。近年、供給の減少から貴重な食材へと姿を変えつつあるが、下関には、昔ながらの鯨食の風習が脈々と受け継がれている。

唐戸桟橋付近から、下関と門司を結ぶ関門橋を望む。かつて、福岡・佐賀・長崎の北部九州は鯨肉の最大の消費地であったことから、下関はその供給基地としても機能していた。

大いなる海の恵みを食する

 鯨は海に生息する哺乳動物であるが、「勇魚[いさな]」という古名や大きな魚を意味する「鯨」の文字が示すように、古くは魚と同様に扱われていた。下関では、今も鯨はごく身近な海の幸として、年末年始のおもてなし料理には、鮮魚の刺身と一緒に鯨肉が盛り付けられるという。また、市の無形民俗文化財である蓋井島[ふたおいじま]の「山ノ神神事」では、山の神を饗応する祭祀が7年に1度行われるが、お供え物やまかないに鯨が使われていた。

 郷土の味「おばいけ」は、鯨の尾びれの部分を「尾羽[おば]」または「尾羽毛[おばいけ]」と呼ぶことから、その名で親しまれている。“大きいもので邪気を祓う”という謂れから、鯨は広く節気などに食される縁起物。この地域では、節分行事に鯨を食べると災厄を祓い、健康に過ごせると伝わってきた。

 鯨料理専門店「長州くじら亭」は、1919(大正8)年創業の海産物問屋の直営店として、地域の鯨食文化を担っている。ミンククジラの尾羽を薄くスライスし、茹でて水にさらしたものを酢味噌で食べる「おばいけ」は、しゃりしゃりとした独特の食感がおいしさを引き立てる。白いその姿から「尾羽雪[おばゆき]」とも呼ばれる伝統の味は、雄大な海に育まれた食文化の奥深さを物語っている。

塩漬けした後、冷凍して味をなじませたミンククジラの尾羽。これを専用の機械で薄くスライスする。

スライスしたものを加熱すると、縮んでふわふわとした形状に。その後、流水にさらす作業を繰り返し、においを取る。

水にさらし過ぎず、食感を残して仕上げるコツが味を決める。

まず白味噌、卵黄などで玉味噌を作り、酢とみりん、辛子で味を整えた「長州くじら亭」の酢味噌。

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