
- 作曲家・ピアニスト。桐朋学園大学入学と同時にデビュー。年間60本を越える公演の他、ライフワークとして「学校コンサート」や「病院コンサート」、そして被災地にピアノを届ける活動「Smile Piano 500」にも精力を注ぐ。ドラマ・映画・CMの音楽を多数担当する。2012年には、アカデミー賞受賞アニメーション作家、フレデリック・バック氏の絵画とのコラボレーションアルバムを発売し、注目を浴びる。2013年7月には、通算37作目となるニューアルバム「ビオトープ」をリリース。代表作はドラマ「101回目のプロポーズ」、映画「子ぎつねヘレン」など。
仕事柄、音には敏感です。それゆえ、困ってしまうこともあります。たとえば、旅先の山麓や湖畔で静かに自然を味わいたいのに軽快な音楽が大音量で鳴り響いていると、気になって楽しめなくなるのです。
10年ほど前、テレビの旅番組に出演することになり、どんな場所へ行きたいかと聞かれました。仕事で旅することの多い私は、すでに47都道府県をほぼ制覇していたので、普段は行けないような場所で滅多にできない経験をしてみたいーー。そう思って、こんなリクエストを出しました。
「音のないところで自分とじっくり向き合いたい」
選ばれたのは奈良県吉野郡天川村。山の奥深いところにあり、神が宿るという言い伝えがあると聞き、静寂に包まれた神秘的な村を思い描いて期待が膨らみました。実は私、大阪育ちなのですが、観光で奈良に行く機会はほとんどありませんでした。
電車で天川村へ向かったのは、肌寒い季節の雨上がりの昼。車窓から景色を眺めていると、町から離れるにつれて、田んぼのなかにぽつんと建つ茅葺屋根の家が見えてきて、まるでタイムスリップしているかのようでした。
やがて靄の切れ目から少しずつ姿をのぞかせるかのように、天川村が見えてきました。それは幻想の世界に入りこんだと錯覚するような風景でした。でも同時に、昔から日本人が大切にしてきたものが目の前に立ち現れたようにも感じました。この瞬間、頭にメロディーが浮かびました。これはのちに、「見果てぬ夢を探して」という曲になりました。
山をのぼっていくと、ようやく旅館にたどり着きました。洞川のすぐそばで、木が生い茂っています。実はこの洞川、旅館のあたりは急流なので、ザーっ、ザーっと大きな音を立てるのです。食事の時間や温泉の場所を説明する女将さんの声が聞き取れないほどでした。
「ここなら静かだと思ったのに……。今晩は眠れないかもしれない」
ところがしばらくすると、まったく気にならなくなったのです。川の音は私の体の中に入り込んで、心地よいリズムになりました。風の音も聞こえてきて、ゆっくりと木がたわむ様子が伝わり、その夜はびっくりするくらいよく眠れました。人工的な音がない世界はこんなにも気持ちがいいのかと思いました。
温泉に浸かりに行くと、露天風呂は2人くらいしか入れないほどの大きさでした。木がうっそうと茂り、その中にポツンとお風呂があるかんじです。そこには、こう書かれていました。
「天川村の虫や葉っぱさんは温泉が大好きです。うっかり入っているようでしたら、そっと取り除いてあげてください」
注意書きのすぐそばに小さなザルが置いてありました。構えすぎない自然な気遣いを感じて、私もやさしい気持ちになりました。
翌日、陀羅尼助という日本に古くから伝わる胃腸薬を作っている民家を訪ねました。高齢のご夫妻はテレビカメラが回っていても身構えることなく、黒電話にひっきりなしにかかってくる注文を受け続けていました。ここでもまた自然体の生き方に触れ、それがとても温かくて心地良いと思いました。
このとき以来、陀羅尼助を買い続けています。その昔、修行僧が眠気覚ましに使ったといわれるこの薬は、私にとってはお守りのようなものです。うっかり暴飲暴食してしまったときなど、薬を見るだけで天川村のことを思い出します。夢の国のように見えるけれど、かつて僧侶が苦行をした場所でもあり、地にしっかりと足がついた営みが続いていると感じるのです。
旅のあいだに浮かんできたメロディーを紡いで完成させた「見果てぬ夢を探して」は、ピアノだけで録音する予定でした。ところが、なにか物足りない気がして、急きょチェリストに参加してもらいました。低音のどっしりとした弦の音色を入れると、天川村で見た自然体の生き方が再現されたかのように聞こえました。
いろんなところへ旅しましたが、あこがれ続けた日本の原風景にやっと出合えたと感じたのは、天川村がはじめてでした。でもこれから先、別のどこかでまたそういう体験ができるかもしれません。