山町筋でひときわ目を引く筏井家住宅。1903(明治36)年築。代々、綿糸などの卸商を営んでいた商家。黒漆喰のいかにも重厚な建物だ。

特集 越中 高岡

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繁栄を象徴する山町筋の商家群

 奈良時代、国守として5年を高岡の地で過ごした大伴家持は、数々の秀歌を『万葉集』に残した大歌人でもある。その機縁でここ高岡では和歌に親しむ人が多い。

 むろんその頃にはまだ高岡という地名はない。富山湾に注ぐ庄川の扇状地の、「関野」という小台地を「高岡」と命名したのは加賀前田家2代当主、前田利長である。1609(慶長14)年、利長はここに高岡城を築城した。支城とはいえ、城郭の規模は本城の金沢城にも劣らず、防御に堅固な城であったらしい。

 その城跡は現在、古城公園になっている。駅から歩いてすぐだ。城下でもっとも古い御旅屋町[おたやまち]を通り、高岡大仏を過ぎると大手口。古城の濠端には鬱蒼と樹々が茂り、築城当時の石垣が水面に姿を映している。一周すると、いかに城域が巨大であったかがよく分かる。 利長は城を築くと、各地から商人や職人を呼び寄せ、商と工の振興を進めたが、その矢先に病没。主を失った城は廃城。家臣も金沢へと引き上げた。「城のない城下町は衰退する」と、この町の窮状に、3代当主利常は利長の遺志を継ぎ、商工都市への転換を図る。

山町筋の土蔵
明治の大火で焼け残った江戸末期の土蔵。現在はギャラリーとして改装し、地元の若いアーティストやクラフト作家の発表の場にもなっている。

高岡城跡(高岡古城公園)の濠
高岡城は利長が隠居城として築城したとされるが、二重の濠に囲まれて5つの郭を備えた堅固な城だった。

山町筋木舟町の景観
重厚で繊細な意匠を持つ土蔵造りの家々が建ち並ぶ。開町時からの歴史を今に伝えると同時に、明治期の防災都市高岡を象徴する町並みだ。

利常は商人や職人が町を離れるのを固く禁じた。この政策が、後に高岡を「北陸の大阪」と呼ばれる経済都市に発展させる。その商都の繁栄を色濃く残しているのが、城の北西、旧北陸街道の山町筋[やまちょうすじ]の重厚な商家の町並みだ。黒漆喰、分厚い壁の土蔵造りの商家が通りの両側に並ぶ。瓦屋根に鯱を戴いた邸[やしき]もある。

 この土蔵造りの重要伝統的建造物群保存地区の家並みは、北前船交易で繁栄をほしいままにした高岡の富の象徴だ。そして町の歴史を伝える景観でもある。山町筋の木舟町で270年続く繊維問屋の8代目主人、志甫和彦[しほかずお]さんの話では、「明治33年の大火で建物の多くが焼失してしまった」ようだが、通りにはなお江戸の気風が残り、明治以後の銀行や洋館、それに大正、昭和の商都の繁栄を建物を通してうかがい知ることができる。さながら建築博物館だ。しかも、「保存」ではなく、今も店舗兼住居として暮らしの営みがある。

木舟町の老舗繊維問屋の8代目当主の志甫さん。「土蔵造りの家は、古い、暗い、冷たい、住みにくい。それにサラリーマン家庭も増えて守るのは大変。でもね、これこそ商都高岡の景観だからね」と話す。

高岡御車山祭
「重要有形・無形民俗文化財」で、高岡関野神社の春季例大祭として例年5月1日に行われる。祭り当日は各山町を曵き回した後、古式どおりに巡行して市内の片原町交差点で7基の御車山が勢揃いする。

御車山はそれ自体が美術工芸品だ。先端の鉾留は神が降臨し、その下の花傘は祭壇に飾られた花々を表している。日本でも屈指の華やかさで、高岡商人の財力と心意気がうかがわれる。

 ところで、山町という町は実はない。高岡の伝統行事で400年継がれる重要有形・無形民俗文化財「高岡御車山祭」の御車山を持つ界隈10カ町を「山町」と言い、志甫さんは高岡御車山保存会の会長でもある。高岡の伝統工芸の金工や漆芸で御車山は細部にまで華飾され、絢爛豪華。志甫さんが言うには御車山祭こそ「高岡の歴史と文化、高岡商人の心意気そのもの」だそうだ。 祭りの当日は一堂に親族が集う、特別のハレの日でもある。

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