「自由花」池坊由紀作。自由花は約束事にこだわらず自由な形をつくることができ、これまでの立花や生花とは異なる空間に花を飾るための新しいいけばなとして、広く普及している。

特集 一木一草一花の命を慈しむ日本人の心 いけばな

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京で華麗に花開いた「いけばな」の文化

 烏丸御池を少し下ると、「六角さん」の愛称で慕われる御堂がある。聖徳太子ゆかりの観音霊場で、正しくは「紫雲山頂法寺六角堂[しうんざんちょうほうじろっかくどう]」。境内に残る「へそ石」は京の真ん中を示していると伝わるが、この六角堂は華道池坊の誕生の地で、池坊は言うまでもなく最大最古の華道流派である。その縁起は、境内の奥に残る、聖徳太子が沐浴されたと伝わる池跡に由来する。その昔、池の畔に僧侶の住坊があって「池坊」と呼び、寺僧は代々、仏前供花の巧者として評判であったが、室町時代前期にとりわけ花を立てる名手が現れた。

 華道家元池坊の中興の祖、十二世池坊専慶[せんけい]である。 専慶は、書院造の座敷飾りの「立[た]て花[はな]」の名手で、 同時代の東福寺禅僧の日記『碧山日録[へきざんにちろく]』は、専慶が金瓶[きんぺい]に草花数十枝をたてて洛中の大評判となり、見物に押し寄せた者は「皆その妙を嘆ずる也(感嘆した)」と伝えている。仏前に供える「供花[くげ]」を、専慶は鑑賞する「花」へと導き、「いけばな」の礎を築いた一人である。

 日本人は、古より自然界の一木一草一花を神の依代[よりしろ]とし、そこに宿る命を慈しむ感性を備えていた。やがて仏教とともに、宗教的行事の荘厳な「供花」が伝わり、相互が「習合[しゅうごう]」する。これが「いけばな」の起源とされ、平安時代には日本独自の美意識が育まれ、草花を瓶に挿して鑑賞するようになる。やがて室町時代に書院造の座敷の押し板(床の間の原型)を飾る「立て花」が成立した。

頂法寺六角堂。寺伝では、創建は587(用命天皇2)年。聖徳太子が霊夢によって建立したという。

『池坊専応口伝』。池坊専応が1537(天文6)年に相伝した花伝書の写し。「立花(りっか)」の心得や技法、その美意識と悟道の境地が書かれた花論。(池坊総務所蔵)

 この専慶の「立て花」を二十八世池坊専応[せんのう]が理論づけ「立花[りっか]」とし、「いけばな」の理念を明らかにした。「いけばな」とは何かを『池坊専応口伝[くでん]』で説いている。「いけばなは、美しい花を只、挿し愛でるだけではなく、野山水辺に生える自然の姿を花瓶に表現し、その草木が生えてきた背景までも感じさせるものである」として、専応は「いけばな」に精神と思想を持たせたのである。

『池坊専好立花図屏風』。江戸時代初期の二代専好が立てた立花を描いている。作者は不明だが、表現に絵画としての理想を加えず、ほぼ忠実に専好の立花を写している。(池坊短期大学蔵)

 そして、三十一世池坊専好[せんこう](初代)は、安土桃山時代の豪壮華麗な文化の下で、座敷飾りの花を独立させて新たな芸術に昇華させ、それを受け継いだ三十二世池坊専好(二代)が「立花[りっか]」を大成する。実作の名人と賞賛された 二代専好の作風は雄大華麗で、自然を一つの花瓶のなかに写しとるという芸術技巧の極地を完成したのである。

 江戸時代になると「立花[りっか]」は町人の間にも、教養や嗜みとして広まり、町家の床の間にも飾られるようになる。その後、誰にも易しい形式の「生花[しょうか]」が誕生し、流派も続々と生まれた。現在3,000以上の流派があると言われるが、その源流を辿ると六角堂に立ち戻る。京の真ん中で誕生し、今や世界へと大輪の花を咲かせているのである。

池坊に残る現存する最古の花伝書『花王以来の花伝書』(室町時代)。花姿を彩色で描き、立て花のさまざまな形や様式を書き留めている。(池坊総務所蔵)

1594(文禄3)年、豊臣秀吉が前田利家邸に赴いた際に、初代専好が大広間(四間床:幅7.2m)に立てた大砂物を再現した作品。

池坊専好(二代)肖像画。初代専好の立花を継ぎ、後水尾天皇に篤い庇護を受け、立花を大成した。(池坊総務所蔵)

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