球磨川が八代海に注ぐ河口に、景行天皇ゆかりの水島がある。水面に、大きな岩石がせり上がったような水島には祠が設けられている。

特集 西日本万葉の旅 筑紫から火の国を越えて

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聞きしごと まこと貴く くすしくも 神さび居るか これの水島 長田王

筑紫から南へと下り、火の国・熊本に入り、天草の島々が横たわる熊本県八代[やつしろ]市の不知火海[しらぬいかい](八代海)へと出る。球磨川の河口の、水面に鋭く突き出した千枚岩の水島は古い歌枕である。現在では干拓が進み、球磨川の堤防に隣接して島の面影は失せているが、その昔は沖合に浮かぶれっきとした島であった。景行天皇にゆかりの場所だ。

 『日本書紀』の景行天皇18年のくだりに「4月、景行天皇が芦北の小島に留まって食事をされたとき飲み水がなかったので小左[おひだり]という者が神に祈りを捧げたところ、たちまち崖のほとりから清水が湧き、その水を汲んで天皇に差し上げた」という記述がある。ゆえに水島という。作者の長田王は天平時代初期の官吏で、筑紫からこの地に赴任し、かねてより耳にしていた伝説の水島へと渡る船上での感動を歌に詠んだのが、上の一首。

 周囲の雰囲気はずいぶん変わってしまっているが、水島の先には天草の大小の島々が連なる。島々が見せる風景の美しさは、いまも天平の頃とそうは変わっていないはずだ。この水島は、江戸時代には干拓で埋め立てられるところだったが、由緒ある島として保存されることになったという。今日の文化財保護の先がけともいえる万葉の故地である。

隼人の 瀬戸の磐も 鮎走る 吉野の滝に なほ及かずけり 大伴旅人

隼人の瀬戸

鹿児島県阿久根市の黒之浜と、長島の間の狭い水道が隼人の瀬戸。季節によっては渦潮も見られ、鳴門や明石にならび潮流が速い。

水島から、八代海沿いに鹿児島県に入ると、阿久根市の「隼人の瀬戸」に至る。隼人とは薩摩の古名で、このあたりを拠点とした一族の呼称。現在は、黒之瀬戸と呼ばれ、八代海の南端の阿久根市の黒之浜と、対岸の長島(出水郡)との間の3kmもの水路で、幅の狭いところは200m程しかない。

 干潮の時間には細く狭い水路を、八代海の水が駆け下るようにして東シナ海に一気に流れ出る。潮は奔流と化し海面の方々に渦ができる。歌は、旅人が大将軍として720年に隼人の乱を制圧に赴いた折に詠んだものか、それとも大宰府に着任後に当時を振り返り思い出して詠んだものかは分からない。そのいずれにしても、激しい潮流に感動を覚えつつも、故郷の吉野に思いをはせている。

 底まで見透す青く澄んだ海に、魚が敏捷に群れ泳いでいる。しかし、川岩を噛むような激しい吉野の流れ、透明で輝くような清流に身を躍らせる鮎の姿、その爽やかな感覚の吉野の風景には「やっぱりおよばないよ」と詠う。異境の地にあって思う胸中にはやはりそこはかとなく切なさが漂う。この旅人の一首が、万葉集の中で詠われた最南端の地である。

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