Essay 出会いの旅

Kenichiro Kobayashi 小林 研一郎
東京芸術大学作曲科及び指揮科卒業。第一回ブダペスト国際指揮者コンクール第一位及び特別賞受賞。ハンガリー国立音楽総監督、日本フィル音楽監督など 国内外のオーケストラ指揮者を歴任。現在最も活躍し、注目されている世界的指揮者の一人である。2005年社会貢献を目的とした「コバケンとその仲間たちオーケストラ」を設立。東京芸術大学名誉教授。

カム・バック!ハァーちゃん

 その夜の丹波篠山は土砂降りの雨だった。バケツをひっくり返したような雨と言うやつだ。
 僕は大阪近郊で昼のコンサートを終え、何とか丹波篠山に着かねばならなかった。大阪駅からJR福知山線の特急で50分程で篠山口駅だ。当時文化庁長官であられた河合隼雄先生にお会いするためだった。2004年6月6日。 二人のスケジュールは過密を極めており、調整してもこの日しか逢瀬は他に無かった。丹波篠山は長官が生まれ育った地である。「泣き虫ハァーちゃん」など河合隼雄先生の著作を読んだ方なら、しばしば目にした地名であると思う。実の事を言うと、篠山口にたどり着くまでの車窓からの風情をよく覚えていない。演奏会を終えた安堵感と疲れ。長官とのコンサートに遅れてはならぬ、という焦り。そして、デュオをする期待に心が躍っていたことだけをよく覚えている。今、思うと、車窓からの6月の樹々は恵雨を得て、夏に向けて生命の息吹を蓄え、その新緑はより輝きを増していたに違いない。心理学者としての長官はあまりにも高名であったが、又、フルートの名手でもあった。京都大学の学生オーケストラでフルートをなさり、長い休眠を経て、50代が終わる頃、再びフルートを手にしたと聞いていたが、その割にはお上手に吹かれる。「コンサート結構多いんですよ、場数を踏めばねえ」と目を細めていらした。そのようなわけで、キューピット役の里見香華先生(南総里見八犬伝の里見家の子孫、日舞里見流家元)のお働きで長官とコバケンのデュオコンサートの実現となった。丹波篠山の町中にある、鳳鳴酒造の酒蔵が会場となった。酒蔵故に冷暖房不可である。だから春から夏までと、秋の限られた期間だけしか使えない。各地からの百人弱の聴衆は薄暗い酒蔵の中で息をひそめ、まさに幽玄の空間での演奏会となった。酒蔵コンサートはご主人の西尾昭氏の趣味が昂じての贅沢だ。「歌の翼」長官のフルートと僕のピアノが語り合う。豊かな至福の時が流れた。音を立てて降りしきる雨の中、長官は次の仕事へと向かうため会場を後にした。その後ろ姿は上背も高く、肩幅も広くかっこよかったが名残惜しそうに見えた。
 この酒蔵コンサートが縁となり、2006年7月、我々は銀座ヤマハホールで美智子皇后陛下のご臨席も賜り、演奏することになった。長官はフルート奏者、兼ナビゲーター。まるで僕を弟のようにいつも優しい眼差しで見守って下さった。「長官、フルートをもっと高く構えて!」と言う僕に、「僕のフルートは普通のより長いのですよ、長官と言うだけにねぇ」そのお茶目さが人々を緊張から解き放した。その年の秋、熊本で予定していたスペシャル・オリンピックス※日本ナショナルゲームを支援するためのコンサートに「コバケンとその仲間たちオーケストラ」の楽員として参加してくださることになった。オケメンバーとしての演奏は学生時代以来のことではなかったろうか。このオーケストラは障がいがある人も健常者も同じ空間、時を共有し、同じ喜びを享受して共生する社会の実現を目的として、プロ・アマ、年齢も問わず趣旨に賛同した演奏家がその日の為にだけ国内外から集まりボランティアにより、コンサート活動をしていることをお話しすると、「非常に素晴らしい活動ですね。こういうのが日本にもっと増えなくてはいけない。僕もスケジュールを調整して是非、参加したいですね」何度か電話を頂き「必ず参加しますよ」しかし、それを実現すること叶わず、長官は翌年8月に倒れられた。その後一年の間、病床で過ごされたが意識は戻らぬまま、今生での別れの日となったのは2007年7月19日。人生の師を失ったその別れはあまりにも哀しかった。病床ではどんな夢を見ていたのだろうか。長官とは夢の話しをよくした。「僕は宇宙を飛んでいる夢をよく見るのですが、行く手にはこの世の物ではない文字で何か書いてあり、訴えかけてくるのですが」「あーそれね、それは非常に珍しいですよ。10万人に一人位ですね」又、僕の音楽の話しにも熱心に耳を傾けて下さり「こういう話しはコバケンさんしか出来ないですよ!」と僕を喜ばせた。「長官は鬱病の方のカウンセリングでは、どう向き合うのですか」と僕の唐突な質問にも「待つんですよ。一緒にとことん沈みこんで待つんですよ。この待つと言うのが皆出来ないですね」という具合に話は尽きなかった。
 しかし、長官がついぞメンバーになり得なかった「コバケンとその仲間たちオーケストラ」は、長官の想いの後押しがあってか、その後も活動を続け、今年3月にはNHK厚生文化事業団50周年記念事業として、障がいがある演奏家たちもオーケストラに加わりNHKホールでコンサートを行うに至った。この様子はドキュメンタリー番組「オーケストラ生まれる」となって、国内外に放映された。そして、この9月20日は神戸ポートピアホールで関西地区でのデビュー公演となる。11月5日から大阪で開催されるSO日本ナショナルゲームを支援する為だ。この無名のオーケストラがここまで歩んでこれたのはいつも長官が見守って下さっているからだ・・・。そう思えてならない。

※スペシャル・オリンピックス…知的発達障害がある人たちにさまざまなスポーツトレーニングとその成果の発表の場である競技会を、年間を通じ提供している国際的なスポーツ組織。

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