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March 2010 vol.129
のどかなで平和な斑鳩の里。田畑の向こうに見えるのは「いかるが三塔」の一つ、法起寺の三重塔。
『古寺巡礼』で、大和の風景を「可憐な少女のような山水」と讃えた和辻は、導かれるように古寺を巡り、方々に足を延ばしている。そうして、旅の終わりに訪ねたのが聖徳太子ゆかりの斑鳩の里である。
斑鳩の里へ向かう気持ちを、和辻はこう書き出している。「法隆寺の停車場から村の方へ行く半里ばかりの野道などは、はるかに見えているあの五重塔がだんだん近づくにつれて、何となく胸の踊り出すような、刻々と幸福の高まっていくような、愉快な心持ちであった」。高揚感とともに、みずみずしい感性が伝わってくる。
もちろん、辺りの景観は変わってしまっているが、法隆寺の五重塔が見えたときの気持ちの高鳴りは、今も変わらない。斑鳩の里には、「いかるが三塔」と呼ばれる法起寺や法輪寺も田畑の向こうに見える。それは実にのどかな風景であり、厩戸皇子[うまやとのおうじ]といわれた聖徳太子が政情不安な飛鳥宮を離れ、ここに理想郷として宮を設け移り住んだ。皇子はここから政務のために飛鳥まで通ったという。
松並木の参道を進み、南大門の前に立った和辻は「陶酔がはじまって、体が浮動しているような気持ちになる」と記している。法隆寺の創建は飛鳥時代の607年。金堂や五重塔は世界最古の木造建築で、建造物だけでも国宝、重要文化財が50棟以上を数える。さらに、釈迦三尊像や百済観音像、聖徳太子等身の秘仏救世観音像などの国宝の仏像や工芸品が20、重要文化財は153件にもおよぶ。法隆寺はそのすべてが日本美術史の一大源流なのである。
一つ一つが、奇跡的に創建時のまま残り、奈良時代以前の飛鳥時代から平安、鎌倉に至る造形様式を知る重要な遺産なのだ。和辻の体を浮動させたものは、この時を越えて過去と対話できる興奮であった。『古寺巡礼』には繊細な視線がとらえたその時の様子がつぶさに描かれている。伽藍の配置や入母屋の造り、五重塔の各層の釣り合いや、屋根の美しいこう配、エンタシスの柱、外の光や樹木の緑が透かして見える連子窓…すべてが完璧に調和している。そんな飛鳥の美と向き合った和辻は「ショックが全身を走り、痺れに似た感じです」と、その時の体験を記している。
法隆寺は五重塔などがある西院伽藍と、夢殿などがある東院伽藍があり、聖徳太子は東院に住んだ。隣接する中宮寺は聖徳太子の母、穴穂部間人[あなほべのはしひと]皇后の発願で創建された。さらに法隆寺の裏手ののどかな田園の道を辿ると、太子の子ともされる山背大兄王[やましろのおおえのおう]が建立した法輪寺や、太子が法華経を説いたといわれる法起寺へとつづく。706年建立の法起寺の三重塔は日本最古にして最大。三塔を眺めながらのんびり歩くと、自然と気持ちが癒される。
小高い丘陵に上ると、遠くに大和三山が望める。そして和辻は、『古寺巡礼』の最後をこう結んでいる。「わが国の文化の考察は結局わが国の自然の考察に帰って行かなくてはならぬ」と。素晴らしい日本人の美意識を育んだのは、この国の美しい自然そのものの中にあるというのである。
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