Blue Signal
March 2009 vol.123 
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特集[近代の原点を今に伝える港街への旅 神戸] 文明開化と国際都市神戸の誕生
東洋一美しいと讃えられた神戸外国人居留地
異文化が融合し、共生する「雑居地」
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北野の名の由来でもある北野天満神社の境内からの眺望。
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 1892(明治25)年にはすでに15カ国の外国人が住んでいた。居留地は人口が増加しても拡張しない方針だったが、その代わりに新政府は「兵庫港並大坂に於て外國人居留地を定むる取極」で、居留地外でも外国人が日本人から土地や家屋を借りることを認めていた。

 取り決めで定められた地域は「雑居地」と呼ばれ、土地の売買は禁止されたが、地域内では外国人が日本人から買った家屋を取り壊し、新しく建て直すことは認められた。範囲は居留地を囲む、東西は生田川と宇治川の間、南北は海岸から後背の山麓までだ。山手の異人館街、居留地の西に隣接する中華街、生田や栄町、花隈もこの雑居地のなかにある。

 ここでは国籍や文化、生活様式や習慣の違いを超えて人々は共生し、あるいは融合しながら互いに共通の生活空間と文化を形成していった。これは神戸独自の都市形成で、居留地がビジネスの場であるのに対して、雑居地は多様な文化が日常生活を通じて交流する場であった。1886(明治19)年には、雑居地の居住区画数は居留地の区画数を超えている。

 明治の中頃以降、居留地の商館で働く外国人は港を見下ろす山麓の北野周辺に住居を建て始める。三宮から北野坂をまっすぐ北に登り、山に突き当たる手前、後に異人館街と呼ばれる一帯だ。国籍も人種も異なる人々が意匠を競うように坂道に沿って構えた瀟洒な住居が数多く残り、日本の他の都市にはない異国的な空気を漂わせている。住居の多くは保存対象になっているが、今も実際に暮らしている家もある。

 こうした人々は、神戸の近代化と発展に多大な貢献をした。造船やゴム、繊維など今日でも神戸を代表する産業の礎を築いただけでなく、教育や医療・福祉、文化の向上にも大きな足跡を残している。ポルトガル人のW・デ・モラエスのように、日本永住を決意し、神戸に移住した者もいた。神戸のポルトガル副領事館の初代副領事を務めた彼は、日本人を妻に迎え、神戸や日本文化を精力的に海外に紹介した人物である。

 居留地の西に隣接した、中華街の華僑の人たちの功績も大きい。開港時に欧米人とともに日本に移り住んだ彼らは、通訳や貿易業務を補佐し、欧米人と日本人との相互理解に努め、その国際的なネットワークは神戸の経済発展を後押しした。こうした居留地の歴史の一端に触れるだけで、神戸は「日本人と外国人が協力し合ってつくりあげた街」と言われるのも、なるほどと頷ける。

 居留地が誕生して140年。第一次世界大戦を境に、外国商館の多くが退去し、代わって日本の商社や海運会社が居留地に進出した。その頃に建てられた、堅牢な石造りのビルが古き良き時代の神戸を伝える一方で、ブランドショップやおしゃれなカフェがセンスを競っている。クラシックとモダンが違和感なく共生しているのも神戸の魅力である。そして戦時下の空襲で焦土と化し、阪神・淡路大震災で壊滅的な被害を被ったが、それでも居留地の街区や通りは開港時とあまり変わらない。これが神戸という都市の記憶ではないだろうか。

 旧居留地から山手に向かう坂道を歩いた。歩くごとに傾斜が急になり、山々が迫ってくる。トアロードは居留地と北野を結ぶ坂道の一つで、仕事を終えた居留地の外国人たちが家路を急いだ坂である。坂道が尽きて振り返ると、ビルの間に暮れなずむ神戸の街と港が見えた。
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建物中央のホールを中心に、周囲に居室を設けている。1階に食堂、応接間、2階に子ども部屋と寝室がある。部屋ごとに天井デザインは異なり、ドアや家具にはどれも装飾が施されている。重厚さに主のライフスタイルがうかがえる。
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山手の北野にあるレンガ造りの旧トーマス邸は「風見鶏の館」の愛称で親しまれている。
ドイツ人のG・トーマスは貿易商で、1909(明治42)年に建てられ1914(大正3)年まで自宅として使っていた。
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「萌黄の館」の名で知られる小林家住宅は、アメリカ総領事のH・シャープの住居として1903(明治36)年に建てられた。北野町界隈で風見鶏の館と並ぶ国の重要文化財。萌黄色以前の外壁は真っ白で、「白い異人館」と呼ばれていた。
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木造2階建てで、2つの異なった張り出し窓を持つ。内装は外壁の淡い色と同様、明るい色調で統一され、2階のベランダからは、神戸港が見渡せる。
異文化が融合し、共生する「雑居地」
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W・デ・モラエス氏。ポルトガルのリスボンで生まれた海軍士官モラエスは、神戸に深く魅せられた一人。日本に永住を決意し、日本人を妻とした。『Bon-odori』など、多くの著書で日本文化を海外に紹介した。(神戸市立博物館)
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神戸クラブ(1912年撮影)。神戸クラブは欧米系の外国人の代表的な社交クラブ。背景の建物はイギリス人建築家ハンセルの設計で、ビリヤードルームやバー、図書室、ボーリング場もあった。(神戸市立博物館)
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旧ハリヤー邸(うろこの家)。神戸で最初に一般公開された異人館でもともとは明治後期に外国人向けの高級借家として居留地内に建てられた。大正時代に北野に移築された。
 
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