Blue Signal
March 2009 vol.123 
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特集[近代の原点を今に伝える港街への旅 神戸] 文明開化と国際都市神戸の誕生
東洋一美しいと讃えられた神戸外国人居留地
異文化が融合し、共生する「雑居地」
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左の写真は、居留地の海岸通を西から東の方向で撮影したもの。通りの右側にはプロムナードを兼ねた緑地帯がある。 右の写真は、同じ海岸通を東から西の方向を見た風景で、左側が岸壁になる。(神戸市立博物館蔵)
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 神戸港の開港は横浜、長崎に遅れること9年。その遅れがかえって幸いした。十分な準備と先例を範とし、港湾や居留地を計画的に整備できた。ただし、開港期日までに間に合ったのは運上所(税関事務所)と3カ所の波止場、倉庫3棟。居留地は建物はむろん、造成も排水設備も未完成の状態だった。

 居留地とは一定の境界を設けて外国人に居住、貿易を許可する区域のことをいい、土地は日本政府の貸与である。神戸の外国人居留地の敷地面積は、約25万7000m²。およそ500m四方だからそう広くはない。

 その範囲は現在の地図に重ねると、東はフラワーロード西側の神戸市役所、西は大丸神戸店西側の鯉川筋との間で、南北は大丸神戸店北側の旧西国街道から港に接する海岸通りに囲まれた区域である。現在のフラワーロードは、もともと生田川が流れていた川筋だったが、大雨のたびに氾濫し水が居留地に流れ込むため、流路を付け替え埋め立てられたものだ。工事を請け負った加納宗七の名は加納町の町名で残っている。

 居留地計画は明治新政府に引き継がれ、地区内は全体を22のブロックに分け、126区画を設け貸与された。居留地の設計を任されたのは27歳の英国人技師J・W・ハートだった。ハートが設計した居留地は非常に整備された美しい街となった。居留地中央の南北をメインロード(現在の京町筋)が貫通し、歩道と車道を分離し、海岸通りにはプロムナードを兼ねた緑地帯を設けて、通りのすべてに街路樹や街灯を配置した。下水道、レクリエーショングラウンド、火の見櫓…現在の市役所南側にある東遊園地公園は、居留地時代の「内外人公園」である。

 それは西洋の一つの理想的な街の姿であった。1区画の面積は最小で200坪、最大で600坪あり、競売で借与者を決定した。開港した年の9月に1回目の競売で36区画を募集し、その後、区画の施工順に4回の競売を重ねて126区画すべての競売が完了する。居留地が完成するまで約5年の歳月がかかった。国別ではイギリスが64区画で一番多く、次いでドイツ、オランダ、アメリカ、フランスの順になっている。

 街の美しさは東洋一と謳われた。開港から3年を経た神戸外国人居留地を当時の英字新聞『The Far East』の記事はこう紹介している。「神戸はたしかに美しく、東洋における居留地として、もっともよく設計されている。そこには中国や日本らしからぬものがある。(中略)広々とした清潔な街路、十分な歩道、美しい背後の丘や湾内の輝くさざ波。そして小ぎれいで心地よい建物はすべて真新しく、魅力あるものなのである」(訳/坂本勝比古氏)。

 記事はさらに、他の開港場と比べて最も活況があるとも讃えている。居留地の運営も居留地会議という独自の自治組織によって極めて良好に運ばれ、居留地が日本に返還されるまでの32年間、域内の争議はもとより、周辺の日本人とも争い事はなく親密な関係にあったという。

 そして、居留地は本来の目的である貿易を発達させた。開港後の輸出品の上位は茶と生糸、海産物。輸入品は木綿類と毛織物、砂糖、機械など。1899(明治32)年に法律上幕を降ろすが、神戸の骨格を形成した居留地文化は、その後の時代を超えて今日まで受け継がれている。
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居留地内の区割と地番。全体で126区画。東西南北に整然と区割された神戸外国人居留地は、東洋における居留地でもっとも計画的に整備されていると言われた。現在の区画とほとんど変わっていない。(元図は『神戸と居留地』/神戸外国人居留地研究会・編/神戸新聞社総合出版センターより)
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旧居留地十五番館。1882(明治15)年頃の築で旧居留地内で最古の洋館。木骨レンガ造り2階建ての塗り壁仕上げで、様式は17〜18世紀のイギリスの植民地で流行したコロニアルスタイル。アメリカ領事館として使われていた。阪神・淡路大震災で倒壊したが、復元再生され、現在はレストランとして使われている。
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大丸神戸店南側の旧居留地38番館。この場所は旧居留地の北西の端になる。1929(昭和4)年築のビルは元々はナショナルシティバンクで、現在は雑貨やファッションブランドなどの店舗として使われている。
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神戸市立博物館は旧居留地のメインストリートだった現在の京町筋にある。元は旧居留地24番に1935(昭和10)年に建てられた横浜正金銀行神戸支店。
東洋一美しいと讃えられた神戸外国人居留地
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イギリス人で居留地行事局の土木技師、J・W・ハートが作成した居留地計画の原図。ハートは整然とした区割だけでなく、とくにインフラの充実を図った。歩道と車道の区分、下水道や公園、プロムナード、街灯の設置などの諸施設を計画的に配置し、工事監督も務めた。
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居留地内に埋設されたレンガ造りの下水道管。居留地は海岸に近いため、雨水の排水など下水道の完備が優先された。
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海岸通の旧居留地5番に建てられた商船三井ビル。1922(大正11)年の築で、設計は村野藤吾。アメリカンルネサンス様式の石造りのビルは堂々とした風格がある。
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